映画「急に具合が悪くなる」~誰かが大事にしていた指人形
映画の冒頭で登場する小さなおもちゃ。毛糸で編まれた動物の指人形だ。
手編みなのか?市販品なのか?フランス製なのか?よくわからないけど、とりわけピンク色のこぶたは、思わず手に取りたくなるほど可愛らしいフォルムだ。
でもこの小さなおもちゃは、この3時間16分の映画が問い続ける「尊厳」というテーマそのものだった。
誰かが大事にしていた指人形
映画を見終わっても何を書けばいいのか分からなかった。
テーマが多すぎる!
介護、死、生、資本主義、ケア……
何を書いても書き足りない気がした。
だから十日間ほど、書かずに放っておいたのだ。それでもふと思い出されるのは指人形。

マリー・ルーが管理者を務める介護施設では、「ユマニチュード」というケアの考え方、すなわち相手を「管理する対象」としてではなく、「尊厳を持った一人の人間」として接する考え方を取り入れているが、一人のお年寄りへの対応が丁寧なぶん時間がかかり、スタッフの負担が増えるのではないかと考えるスタッフもいて、課題を抱えている。
ある日、その施設に入居しているシモーヌという老婦人が興奮状態となり、介護士らが彼女を抑え込むという騒ぎが起こる。きっかけは、シモーヌが大切にしている毛糸で編んだ動物の指人形。シモーヌはそれを落してしまっただけなのに、スタッフに伝えられなくて騒ぎになってしまったのだ。
実はシモーヌはかつてパイロットだった。かなり優秀な人だったのである。年を取って認知症になると人は変わるとも、変わらないとも言うけれど、決断力や責任感が必要な仕事をしていたかつてのシモーヌの姿を思い浮かべたうえで、今、こんな小さな可愛い指人形を大事にしている姿を見ると、シモーヌはいったいどんな人なんだろう?と彼女の人となりが気になってしまう。
93歳で亡くなった私の叔母が最期の数か月を過ごした病院の看護師さんはとても叔母を大事に扱ってくださった。最期は話も出来ないほど衰弱していた叔母に、
「若い頃、英語の先生だったそうですね」と話しかけてくれた。
人は年を取るとそれまでの肩書きや役割で語られがちだ。それすら気にもかけてもらえない場合も多いだろうから、私には有難く思えたし嬉しかった。
でも、よく考えると、その人らしさは肩書きだけでは語れない。
シモーヌにとって、この小さな指人形は、誰にも説明できない「好き」だったのかもしれない。それは今のありのままのシモーヌの姿だ。
介護施設でのシモーヌはただの“老人”であり、なるべく静かに迷惑をかけずに暮らすことが求められている。その中にある感情や人生には誰も注目しない。
しかし、シモーヌの落とした指人形を思わず拾い上げるマリー・ルー、それに真理は、きっと「シモーヌの今までの人生」も「今のありのままの人生」も見過ごせない人たちなのだろう。マリー・ルー(真理も)が尊厳を大切にしたい、といつも思っている施設長だとよく伝わるエピソードだ。
でもそんなマリー・ルーは、理想の施設を作ろうとする施設長だ。
しかし、その理想はスタッフ全員に歓迎されるわけではない。
ベテラン看護師ソフィーとの軋轢は、「尊厳を守る」という理想と、現場を支える現実との間で揺れる苦しさを映し出していた。
その会議の空気は、私自身が仕事で経験してきた管理者と現場の話し合いを思い出させた。
「理解してほしい。」
「押し付けないでほしい。」
正解がないからこそ苦しい。
それぞれの時間を生きている
夜勤の時間が来るまで、カップラーメンが出来るまで、夜が明けるまで、急に具合が悪くなるまでのあいだ、死ぬまでのあいだ、そんな時間の区切りを意識させられるセリフが多くあった。
私は母の介護をしているときに、母の時間の流れ方~時間が一つの流れではなく行きつ戻りつ混濁する感じ、私自身が感じる時間の流れと違うことが理解できるまでの戸惑う感じ、長く途切れ途切れに時間が流れる夜中の暗黒の感覚を思い出した。
そう、人はそれぞれの時間を生きている。
たくさんの仕事をこなして効率よく生きているうちは、時間の感覚の違いにも気付けない。近くにいても別の時間を生きている人と寄り添うことは難しく、認知症、障害者だけに限らず、非効率で手間のかかる営みだ。
人や立場の境界線
この映画では、さまざまな境界線が静かにほどけていく。
舞台と客席、外の鳥が突然室内に入ってくる、施設のスタッフが空き部屋に住む、施設のcaféの運営を外部のボランティアに手伝ってもらう、脚のマッサージのワークショップでの人々の重なり合い。生きていた時の真理の言葉と、亡くなってから他の誰かのなかに生き続ける言葉。
境界線を越えてあいまいにすることで、最初はびっくりすることもあるけれど慣れていくことで相手だけでなく自分自身の生き苦しさも解消されたらいい、と思った。
「小さなただのおもちゃ」ではなかった
冒頭で登場した毛糸の指人形は、映画の中ではほんの小さな小道具にすぎない。けれど私には、この映画の中で一番大きな存在だった。
人は変わる。
「大切なものを大切に思う気持ち」は、最後までその人らしさのそばに残るのだろうか。
あのピンク色のこぶたを思い出すたび、私はそんなことを考えてしまう。
