【ととのえ職人の小語り13】観音寺で「護摩焚き」をしていただいたので、観音様の話をしてみる。
ハイサイ。
ととのえ職人、五木田穣です。
現在、このシリーズの記事では、私が「パーソナルトレーナー」から「ととのえ職人」になっていった経緯(出来事や想い)などを書きながら、実体験と専門家としての立場から、
なぜ、ととのえることが大事なのか
ととのえるとはどういうことか
どういうふうに、ととのえるのか
ととのえると、どんな効果があるのか
その他、心と体の健康に役立つこと
などを、色々な話を織り交ぜながら書いておりますが、どうしても毎度ボリュームが増えがちだし、更新間隔も空きがちだし、伝えたいことが伝わらないかもしれないと考え、
ちょっとゆるめに、日々思ってることとか、感じたことを、サクッと書くパターン(小語り)もやっていこうかなと思いまして、始めました。(3000字程度の予定)
前回の記事はこちら。
さ〜て、今回は、
先週、金武町の観音寺に参拝したと書きましたが、
今週(一昨日)も、行ってきました(笑)
なぜか?
持ち帰ったパンフレットに、こんなの見つけたんですよ。

あ!護摩焚きやってるんだ。…毎月18日か。あ、来週行けるな。…ということで、行ってきました(笑)

そんなところから、仏教の話を少々しながら、観音様についてサクッと書いてみます。仏の叡智ってすごいんですよ。
※小語りのつもりが、書きたいこと書いていたら、中語りになってしまいました😅
「護摩焚き」とは
護摩焚きとは、真言宗(密教)で行われる儀式で、護摩木を燃やし、仏の智慧の炎で煩悩を焼き尽くし、人々の願いが成就するように祈っていただけるというものです。
私、護摩祈祷は、高校時代(成田山新勝寺の成田高校出身)から、ほぼ毎年受けています。もはや、「不動明王」に護られているとしか思っていません🔥
※ちなみに、成田山系は、真言宗智山派で、こちら金武町の観音寺は、高野山真言宗になります。
※沖縄に来てから、月1写経に行っている普天満山神宮寺は、東寺真言宗です。
「観音様」とは
金峯山観音寺の御本尊は、「聖観音」です。
まぁ、一般的に観音様と呼ばれる、仏様ですね。
観音様のことを、正式には、「観音菩薩」と呼び、
さらには、「観世音菩薩」や「観自在菩薩」とも言います。
※法華経では、観世音菩薩と呼ばれます。
※般若心経では、観自在菩薩と呼ばれます。
では、「菩薩」とは何でしょうか。
仏様には、種類というか序列があって、
「如来」「菩薩」「明王」「天」とあります。
・「如来」とは、もうすでに悟っている仏
(釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来など)
・「菩薩」とは、悟りを目指して修行を積んでいる仏
(観音菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩など)
・「明王」とは、大日如来の化身で、言うことを聴かない人を導く仏
(不動明王など)
・「天」とは、仏教に取り入れられたバラモン教やヒンドゥー教の神々で、仏教を守護する役割と言われています
(四天王、十二天、弁財天など)
「観音菩薩は、慈悲の心で人々を救う」とされており、
色々な人々を救うので、色々な姿に変身して、人々の前に現れます。
※千手観音とか、十一面観音とか、三十三観音とか聞いたことありませんか?
観音寺の御本尊の「聖観音」とは、変身前のというか、基本形態というか、観音様の根本的な姿と言われています。
護摩祈祷と言えば、不動明王が御本尊のところで行われるのが基本で、不動明王の縁日は28日です。だから、おや?と最初思ったのです。
観音寺の御本尊の聖観音(しょうかんのん)の縁日は18日だから、観音寺では、毎月18日に護摩焚きをされているということですね。
「縁日」とは、神仏と繋がる日というか、縁が深まる日です。
御本尊の聖観音の縁日に、護摩焚きをする。
慈悲の心で、悩みや不安という煩悩を焼き尽くしてもらう、そんな意味合いでしょう。
※私自身は、悩みも不安もないんですけど(笑)
※私的には、ただ定期的に「火」のエネルギーを入れると言う意味があります。
時間という概念がなくなる「護摩焚き」
観音寺の護摩焚き、すごく丁寧でした。住職さんの一挙手一投足、すべての所作がすごく丁寧で、その姿がとても美しかった。
丁寧に、仏と向き合っているなと感じました。
(そうではない、お寺や住職がある・いるのも知ってるので)
一本一本の護摩木に書かれた名前、住所、祈願を確認しながら、丁寧に焚いていく。気がついたら、あっという間に1時間半超経ってました(笑)
とても良い時間でした。良い空間でした。時が経つのを忘れるというか、、長いんだけど、長さが気にならないというか、、生きていることを忘れるというか、、煩悩が消えるというか、、無になっていくというか、、とにかく、あの時空は特別なもので、とにかく良い時空を過ごせました。
※煌びやかではない、木造のこぢんまりとした、昔ながらのお寺というのもポイントですね。
思ったこと、感じたこと。
観音寺に通いたいだけで、近くに住みたいとも思いました。
御朱印もいただきましたが、書いてくれたのはお婆様で、書く姿が丁寧で美しかったです。(おそらく、住職さんのお母さんでしょうか)

やはり都市部じゃなくて、田舎の寺社の方が煩悩がないというか、丁寧に、純粋に、神仏と向き合っているというか、、昔ながらの信仰の形が残っているというか、、穢れていないというか、、邪念がないというか、、、
真言宗にも色々ありますが、
スタートは「東寺真言宗」と「高野山真言宗」でした。
真言宗を日本に持ってきた空海が、修行するには、京の都は俗過ぎると、修行の場として定めたのが、高野山でした。(京都の東寺は、布教の場として定められました)
個人的に、高野山と縁が繋がって、高野山に学びに何度も通っていました。
あれだけの山奥にいると、俗なものがないというか、下界に降りるのも大変ですから、俗世界と切り離されていきます。現代でもそうなのですから、高野山を切り拓いた当時は、もっとそうだったでしょう。
色々なお坊さんと接する機会が多かったので、高野山真言宗のお坊さんは、俗世界と一線をひいてるというか、綺麗な目をされていたし、生き方が真言密教そのものという感じで、良いお坊さんが多いという印象を持っています。お話はしませんでしたが、観音寺の住職さんにも同じものを感じました。
やっぱ、好きやわ高野山真言宗。
観音様の叡智=般若心経
で、ここからが今回の本題。
観音様の正式名称は、観音菩薩、観世音菩薩、観自在菩薩というと先述しましたが、法華経では観世音菩薩として登場し、般若心経では観自在菩薩として登場します。
般若心経は、あらゆる宗派で読まれます。
(法華経は天台宗の根本経典です)
それは、真理がそこにあるということでしょう。

般若心経は「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」から始まります。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是
舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中無色
無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至
無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道
無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故
無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪
是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
一言で言うと、観自在菩薩=観音様が、般若の智慧、「心の智慧」を語った、「空(くう)」を体得するための智慧を語ったのが、般若心経です。
「観自在」とは、何かにとらわれることなく、ありのままに、あるがままに、「自由自在」に「観る」ことできることを指します。
何かに悩む、苦しむという煩悩は、何かに振り回されているからです。
自分の人生を中心に生きること。
自分を人生の中心に置くこと。
他人の人生じゃない、自分の人生を生きること。
自分の人生を生きるには、
自分で、自分という船の舵を取る必要があります。

ただ流されていては、ダメです。
自分で舵を取ること。
人生には、時には嵐のような、荒波が生じることもあるでしょう。
そんな時も、自分で舵を取り、
逆らえない流れには逆らわず、
流れに身を任せつつも、
安全地帯に抜け出せるようにする。
人生は航海のようなもの。
航海するには、羅針盤が必要です。
羅針盤があれば、迷わない。悩まない。
流され続けないための知識。
頼りになる羅針盤。
それを「智慧」と言う。
仏教には、仏の智慧がたくさん詰まっている。
2500年前から続く、真理が、叡智が、そこにある。
叡智を知ること。自分の知識と経験を積んでいくこと。
そうすると、心が乱れなくなっていく。悟りに近づいていく。
形あるもの(物質)は、いずれ無くなります。
必ず「無」に還ります。
色即是空 空即是色=「空」を空ずる
それを表しているのが「色即是空」です。
色あるもの、形あるものは、必ず、空ずるよと。
空になるよと。すべていずれ無くなるものだ。
と教えてくれています。
これは、物質主義の否定と言ってもいい。
ある意味、これを受け入れれば、虚無感しかありません。
いずれ、無くなるなら何のために生きているのだ?すべて空っぽなんだろ?と考えれば、虚無主義、ニヒリスト的な価値観になります。世の中に絶望した状態です。
でも、「色即是空」の後には、「空即是色」と続きます。
否定を、さらに否定しています。
否定の否定は、肯定です。
それは、ただの肯定ではありません。
同じ肯定でも、全く質が異なります。
「空しさ」を一度、体験した後に見る景色は、色が違ってみえます。
出来事を実感したか、していないかで、見える景色は全然違うのです。
「資格なんか必要ないよ」という時に、似ていると思います。
色々勉強してきて、資格なんか関係ないと言えるのと、
何か読み聴きした知識で、資格なんて必要ないと言ってるのと、
同じことを言っているのに、質が全然違います。
それは「体験」の差です。
「般若心経」の「般若」とは、「知恵」を表します。
心の知恵を教えてくれるお経が、般若心経です。
「知識」と「知恵」は、全然違うものです。
「知識」は知っているだけ。
「知恵」とは、経験が伴うものです。
世の中の「空しさ」を体感し、「虚しさ」で終わり、
「虚無感」で終わるのか、「無」ではなく「空」を感じるのか。
「空しさ」を感じ、「空しさ」を味わい、「空しさ」に徹し、「空しさ」に生きる。そうやって、空じつつ、見えてくる景色は全くの別物です。
「絶望」の中に、「希望」を見出せるか。
否定の否定は、絶対肯定です。
絶対の真理が、そこにあります。
世の中に対して否定的な人は、虚無感で終わっちゃってるんですよね。
そこから、希望を見出して生きていくかどうか。そこの違い。
「観自在」とは、何かにとらわれることなく、ありのままに、あるがままに、「自由自在」に「観る」ことできることを指します。
ほとんどの人が「見てる」だけで「観て」ない。
だから、本質がわからない。騙される。振り回される。
「すべては空である」が腑に落ちれば、自分の人生を自由自在に生きれます。その教えが書いてあるのが、般若心経です。般若心経のすべてを、表しているのが観音様です。
「音を観る」ということ。
さらに、「観音」とは、「音を観る」と書きます。
音は「聞く」もので、「見る」ものではありません。
「見る」ではなくて「観る」のです。
音とは、聞こえてくるもの。それは、客観的なものを指します。
一方、自分の頭の中、心の中を、主観と言います。
目に見えるものだけではなく、目に見えないものも「観る」。
また、主観にとらわれ過ぎず、客観的に「観る」。
主観と客観、両方で「観る」。
目に見えるもの、見えないもの、両方を「観る」。
偏らない。中庸で「観る」。
自分の目で観て、
自分の耳で聴いて、
自分の心で感じて、
自分の頭で考えて、
自分の足で歩いて、
自分の人生の舵をとっていく。
それが大切かと思います。
仏教。それは、仏の教え。2500年前から変わらない真理。仏の智慧、真理を知ることは、「思考を整え、心身を調える」ことに繋がると考えます。だから、ととのえ職人としては、仏教にも触れちゃう(笑)
仏教を信仰する必要はありませんが、仏教的思考は役に立ちます。
(私も仏教は活用していますが、信仰は特にしているわけではありません)
仏教的思考は、精神的健康(情緒的健康、知的健康、社会的健康、)、スピリチュアル的健康に役立つ、と考えます。

最後、金武町(きんちょう)で、金運(きんうん)御守授かってきました。(うん、煩悩だらけ笑)

そんなこんな書きましたが、考えること、感じるもの、知っていること、知らないこと、人それぞれ千差万別ですから、何か参考になることがあれば、幸いです。
これからもいろんなことを書いていきますので、気に入ってくれた方は、引き続きよろしくお願い致します😊
私の記事は、こんな方にお勧めです!
心と体を快適に過ごしていきたい方
本質的な『健康』で在りたい方(健康はなるものではなく、在るものです)
自分の人生を、自分の頭と心と足で歩いて行きたい方
トレーナーや治療家などの、心と体の健康に関わる職業の方
私という存在に興味を持ってしまった方(笑)
記事中の内容やそれ以外のことでも、ご質問やこんなことを知りたいというのがあれば、お答えしますので、お気軽にコメントなどしてください👍

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ととのえ職人 五木田穣
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