【bon37:長崎県_長崎ぶらぶら節と“空気を支配する女”】
石畳。路面電車。潮風の香り。
ここは長崎。
朝から“ぶらぶら節”のメロディが、ゆるく、けれどもどこか小粋に流れていた。
「……これ、ほんとに“踊っていい空気”なの? 誰も踊ってないけど?」
商店街をぶらつく航基が呟く。
スーツ姿の観光客、部活帰りの学生、おばあちゃんの集団。誰一人踊ってない。
「むしろ、踊り出したら目立ちすぎて市議会に呼ばれそうなんだけど」
そこへ、姿勢の良すぎる女が、ふらりと現れた。
「ええ、なら……“空気を変えればいい”だけ」
言い放ったのは愛美梨。
目が合った瞬間、周囲が数センチざわつく。空気が、変わる。
彼女が手を挙げ、くるりと一歩回った。
その瞬間、八百屋の店主がぽかんと立ち止まり、
高校生がスマホを落としそうになり、
猫が屋根の上で「ニャ」と言った(これは偶然)。
だが確かに、空気が変わった。
「……愛美梨さん、あなた、今この商店街の“局所的主役”になったよ」
「踊るかどうかは関係ないの。“私が踊ると空気が踊る”の」
「何その理屈⁉」
愛美梨が、ゆっくりと指を伸ばす。
ぶらぶら節のリズムが、潮風に乗って、また流れはじめる。
足元は石畳。
しかし彼女の動きには、まるでその下に舞台があるかのような説得力があった。
ただの腕の回し方一つが、観光パンフレットの1ページに見える。
「……ねえ航基、あれ、地元民が誰も注意しないってことは――」
「“長崎ではあれが通常運転”ってことだろうな……」
二人は顔を見合わせる。
愛美梨はすでに、道ゆく人を巻き込み始めていた。
無言で手を差し出せば、おばあちゃんが一拍遅れて“回る”。
首をかしげれば、子どもが真似する。
体をひねれば、見知らぬカップルが謎のリズムで足を踏み鳴らす。
最終的に、そこは即興の“ぶらぶら節盆踊りゾーン”となった。
「……ちょっと待って、なにこの支配力……」
航基は呆然と呟いた。
自分が“空気読んで動く側”だと思っていたが、今は完全に“空気そのものが動いてる”のだ。
「これが、愛美梨という人間の力なのか……」
と、そこへ、カメラを持った外国人観光客が声をかけてきた。
「Excuse me! Are you a famous dancer in Nagasaki!?」
「ノー。アイアム……“空気”」
「Wow……‘Kuuki’……」
航基(今、長崎に新しい伝説が生まれた音がした)
(bon37:End)
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