第137巻 日野市:ヒノノカミの通勤改革
日野市の朝は早い。……が、ヒノノカミは遅い。
古くから日野の自動車産業と安全第一精神を守護してきたヒノノカミ。真面目で几帳面、職人気質、常に正確無比――のはずが、今朝も寝坊した。
「……あっ。やば」
神殿(物置)から飛び起きたヒノノカミは、着替えもそこそこに神様専用バス停へ駆け出した。
「8時12分の“霊的バス”……もう発車してる……」
神だけが使える神通バスは、人間には見えない。だがヒノノカミにとっては、唯一の通勤手段。次のバスは1時間後。乗り遅れたら、市内巡回パトロールがすべて手遅れになる。
神様だってシフト勤務なのだ。
「……しゃーない。非常手段、使うか」
ヒノノカミはポケットから古びたリモコンを取り出した。“緊急転送装置(日野式改)”と彫られたそれは、かつて神通省から「危険なので使うな」と厳しく言われた代物である。
だが、今日だけは例外だ。
ボタンを押す。
光が走る。
次の瞬間、ヒノノカミは日野駅前ロータリーの植え込みから出てきた。
「セーフ……って、あれ?」
頭の上に、野鳥が止まっていた。
「ハトかい」
何事もなかったようにポケットから除菌シートを出すあたり、几帳面さは健在だった。
さて、日野の街を守る一日は、ここから始まる。
日野市役所の神様向け窓口。
ヒノノカミはスーツ姿の男性職員に頭を下げた。
「すみません、また“出現場所”が緑地帯で……」
「毎度のことですね。せめて公園内にしていただけると清掃課も助かります」
「すいません、座標が1メートルずれました……今後、半径50cm以内に収めます……」
几帳面で真面目な性格は、人間の公務員とも通じるものがあるらしく、日野市役所の神様担当部署とはもう顔なじみである。
その後、ヒノノカミは神様の業務予定表を確認する。
本日の案件は以下の通り。
朝:市内交差点の信号誤作動防止祈願
午前:第二中学校の職場体験プログラム対応
昼:「お弁当屋さんが配達で道に迷いませんように」願掛け
午後:企業訪問(自動車部品工場)
夕方:高幡不動前のハト誘導(神的理由あり)
「ふむ、信号→中学生→弁当→工場→ハト……予定詰まってるな」
だがヒノノカミの胸に、一つの疑問が芽生えていた。
(……これ、毎日徒歩で回るの、非効率では?)
几帳面で正確な性格が、ついに自分のスケジュール管理に牙をむいた。
この日の午後、ヒノノカミは工場訪問の合間に一つの行動を起こす。
「自転車をください」
ヒノノカミが向かったのは、日野の自転車屋「ハルキ輪業」。
店主の春樹さんは、やたら声が大きい。
「神様がチャリ!?ええじゃんええじゃん!!ハイこれ試乗して!」
試乗用のEバイクに乗せられたヒノノカミ。神の威厳をかなぐり捨て、ハンドルを握る。
颯爽と風を切る。
――数秒後、神は植え込みに突っ込んだ。
無傷だった。神だから。
「電動は……パワーが過ぎるな。もっとこう、穏やかなやつを……」
何台も試すうちに、ヒノノカミの目は一台のシティサイクルに止まった。
「これは……シルバーのフレーム、静音設計、鍵はダイヤル式、そして……ハブダイナモで夜も安心……」
「それ、俺が昔乗ってたやつ!廃車にするつもりだったけど……神様が気に入ってくれんなら!」
こうして、神様の愛車が誕生した。
名付けて、「ヒノノ号(仮)」
以後、ヒノノカミは自転車通勤に切り替えた。
自宅(神殿)から市内全域を巡回するその姿は、知らぬ人が見ればただの几帳面なおじさんである。
だが違う。
信号前ではちゃんと一時停止し、
坂道では降りて押し、
バスが来れば道を譲る。
神様なのに、交通安全ポスターのモデルになりそうなほど模範的だった。
そのうち、地元の保育園からこんな声がかかった。
「ヒノノカミさん、自転車の安全教室、お願いできますか?」
「よろこんで」
こうしてヒノノカミは、安全教室で“ちゃんとした自転車の乗り方”を指導しはじめた。
子どもたちには人気だった。なぜなら、転んでも絶対に怪我しないからだ。
「神様って無敵なの?」「ううん、几帳面なだけだよ」
ある園児のこの一言が、地元紙に取り上げられ、軽くバズった(神通界のみで)。
夕方、高幡不動のロータリーで、ヒノノカミはハトの誘導を終え、空を見上げた。
「……今日も一日、正確に終わったな」
ポケットの中には、毎朝5分ごとに鳴る4つの目覚まし。
サドルの下には、手帳型の巡回記録表。
几帳面で真面目すぎる神様は、日野の街を今日もきっちり守りきった。
──ただし、神社の掃除だけは忘れていた。
「……明日の朝イチでやります……!」
小声で反省しながら、ヒノノ号(仮)にまたがり、神は帰路についた。
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