『右下矢印の男』
ある日、職場に突如として配属された新入社員・右下 也志(みぎした・やし)。名刺にも「右下」としっかり印字されていたため、名前の読み間違いを防ぐ目的で、彼は自らをこう名乗った。
「右下(うしも)じゃなくて、右下(みぎした)です。よろしくお願いします」
最初から厄介な風をまとっていた。だがその真の恐怖は、彼が動き始めてからだった。
「右下くん、これ来週のプレゼン資料ね。修正よろしく」
「了解しました。右下にズラします」
「ん? どこに?」
「全体的に、右下方向です」
翌朝提出された資料はすべて、スライド内の文字が右下隅に寄せられていた。見出しもグラフも注釈も、全部右下。まるで何かに吸い込まれているかのようなスライド。
「君……これ、読めないよ」
「読めます。目線を右下にズラせばいいだけです」
「ズラしたくないんだよ!」
うすしも君はまったく動じない。彼の信条はただ一つ。「全てを右下に置く」こと。それだけだ。
給湯室でも事件は起きた。
「マグカップどこ?」
「右下に置きました」
「って、なんで冷蔵庫の野菜室の右下に!!?」
社内のすべてが右下に寄っていく。掲示板のチラシも、会議室のホワイトボードも、ファイルのラベルも、全部右下。彼の空間認識はもはや矢印そのものだった。
そんなある日、社内で「右下改革会議」が開かれた。
「彼のせいで、社内が斜めに傾いている気がします」
「腰を痛めたのも、たぶん書類が右下にあるせい」
「うちの部署だけ重力が増してる!」
全社員一致で「右下の矢印は一度折るべき」と決議され、彼には“普通の配置”を求める厳重注意が下された。
しかし、右下也志は真顔でこう言った。
「私は“指し示す者”なのです」
「いや、なに? 矢印の精霊?」
「私はどこにも行けない人たちに“次の進むべき方向”を提示するために、この会社に来たのです」
ポエミーなことを真顔で語り出したため、逆に怖くなってしまった我々は、翌日からそっと彼を“右下担当”として部署内に設けた一角に隔離することにした。
それでも彼の影響は止まらなかった。
ある日、会社のWebサイトが更新されると、閲覧者の視線誘導がすべて右下へ。CTAボタンも右下、問い合わせも右下、住所も電話番号も右下。
「スクロールめっちゃ疲れるんですけど」
「一周回って新しいデザインではある」
果てには、右下君が社長に直談判した。
「会社のロゴ、もう少し右下に寄せませんか」
「却下だよ!!」
社内に右下信者がひとり、またひとりと現れ始めた頃、事件は起きた。
右下君が、忽然と姿を消したのだ。
彼のデスクにはただ一枚のメモ。
「私の役目は終わった。君たちは自らの方向性を見つけた。私は……次の“下方向に迷っている会社”へ向かう」
右下也志、実は派遣社員でも何でもなく、どこの社員名簿にも載っていなかった。
総務部長がボソッと言った。
「もしかして……あの人、矢印の化身だったのでは……?」
都市伝説として、右下也志は今も語り継がれている。
なお、現在の我が社のレイアウトは完全に「中央揃え」になっている。
人は、失ってから気づくのだ。
“右下がちょうどよかった”ことに。
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