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『錨のある生活』

「おまえんち……錨あるのかよ」

 その日、俺の人生は小さく舵を切った。

 クラスの陽キャ代表・岸くんが、家庭科の調理実習中にふと放ったそのひと言。別に嘘をついたつもりはなかった。

「あるよ。庭に埋まってるけど」

 この発言を機に、翌日から俺は「錨持ちの男」としてクラスの話題の中心になってしまった。

「え、それガチで!?なんで!?」

「親父が昔、港で働いててさ。退職祝いにもらったんだよ、錨。なんか、こう……シンボル的な?」

「シンボル……?」

 みんな困惑していた。無理もない。普通の家に錨はない。

 だがそれからというもの、俺の家は地元の“観光名所”になった。

 ・『錨見学ツアー(無料・土日限定)』
 ・『錨を囲んでBBQ』
 ・『記念撮影:錨と僕』

 ひどいときは、錨の上でヨガポーズを決めるOLも現れた。

「安定感がすごいですぅ〜」

「そりゃ、船止めるやつだし……」

 この騒ぎを見た親父は、なぜか感動していた。

「ようやく俺の“退職錨”が時代をつかんだか……!」

 いや、つかんでねえよ。

 だが、ここで終わらなかったのが問題だった。

 地元のケーブルテレビが取材に来たのだ。

「“陸にある錨”というユニークさが受けまして……」

 取材VTRでは、俺が錨の横で「これが、僕の人生の重みです」とか訳のわからんことを言わされ、全国ネットで放映されてしまった。

 翌週からは、「錨占い師」「錨カフェ」「錨系男子」など、派生ビジネスが乱立。

 果ては、小学生が「錨持ってるからあの人すごいんだよ」と俺を指さす始末。

 完全に間違った認知で俺は“錨キャラ”として固定された。

 しかも、ある日郵便受けにこんな封筒が届いた。

『日本錨保存協会』

「なんだよこれ……」

 中には立派な賞状。

《あなたの行いは、陸地における海の心を忘れない、現代の灯台である》

 ポエムかよ。

 だが、ついに爆発する出来事が起きた。

 町内会が、錨を“町のマスコット”に認定してしまったのだ。

 ご当地ゆるキャラ「いかりん(推定27kg・動かない)」が誕生。

「こっち見んな」と言いたくなる無表情のぬいぐるみが、スーパーの前で黙って立っている。

 動かないことに定評があり、人気投票で2位にランクイン。

 1位は「タコ焼きヘルメットおじさん」だった。対抗馬が強すぎる。

 そしてある日、俺の家にとんでもないものが届いた。

「海外の港町から……“錨交流”の申し出が来てます」

 市の職員が深刻な顔で言った。

「向こうにも同じように、陸に錨を置いて暮らしてる家がありまして……“錨友好条約”を結びたい、と」

「もう……どういう世界観なんだよ……」

 数ヶ月後、俺は“錨親善大使”として、ノルウェーに旅立った。

 出迎えてくれたのは、雪の中に鎮座する巨大な錨、そしてそれを毎日磨く老人。

「ワタシモ、イカリ、モッテル。アナタ、ワカル」

 目と目で通じ合う“錨持ち”の魂。

 語らずとも分かる、錨の重み。

 俺たちはただ、無言で互いの錨に手を当て、うなずいた。

「……いろんな意味で、人生ってどこで脱線するかわからないよな……」

 日本に帰ってきた俺は、ちょっとだけ錨を好きになっていた。

 錨は動かない。

 でも、その存在感は、いつだって“心の座標”になってくれる。

 今でもうちの庭には、あの錨がどっしりと構えている。

 子どもたちは遊具にし、恋人たちは記念撮影をし、犬はそっとマーキングする。

 錨のある生活は、なんだかんだで悪くない。

 ただ、ひとつだけお願いしたい。

 せめて「いかりんの着ぐるみ」は俺に回ってこないでくれ。

 あれ、めっちゃ蒸れるんだ。


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