第2話「発見!この世界は浮かんでいる!?」
アルキメデスが再び目を覚ましたのは、広い白い天井の下だった。
「む……ここは?」
柔らかすぎるベッド。あたたかすぎる室内。香りは清潔な石鹸と、どこかに漂う微かなゴムの匂い。
「病……院……か?」
中学教師の女性・松井に連れられたあと、いろいろと検査が行われたらしい。彼の血圧、体温、反応、理解度テスト、そして何より“正体が不明すぎる”という理由で一時的に病室で経過観察になったのだ。
そんなことは、アルキメデス本人には当然わからない。ただ、「なぜわしは寝間着を着せられているのか」「なぜあの金属缶のコーヒーがないのか」など疑問ばかりである。
ベッドから降りると、隣のテーブルに不思議な紙が置かれていた。
それは、雑誌だった。
表紙にはでかでかと『Newton』の文字。背景には宇宙、銀河、量子、そして——
「……これは……、これは……!?」
そこに印刷されていたのは、“アルキメデスの原理”という特集ページ。彼の横顔のイラストと、現代的な図解が並んでいた。水中に物体を沈め、その質量と排出される水量を計測する。つまり、浮力の説明だ。
「なんと……こんなにも、わかりやすく……!」
ページをめくるアルキメデスの手が震える。挿絵には、潜水艦やお風呂、さらには宇宙船の無重力環境における応用まで紹介されていた。
「わしの、わしの理(ことわり)が……海を超え、時を超え、ついには星の間にまで……!!」
感極まったアルキメデスは、雑誌を抱きしめてベッドに崩れ落ちた。
「生きてて……よかった……いや、死んだのかもしれぬが……よかった……」
──その姿を、廊下からこっそり覗いていたのが、松井である。
「なんかもう、感情の振れ幅すごいな……。あれで数学だけは神レベルなんだもんな……」
彼女は、彼の“転校”先として用意された仮の生徒証明書と、制服の予備を手にしていた。
「さあ、アルキメデスくん。次は“中学校”だよ」
「歩く速度に応じて……自ら開く門だと?」
アルキメデスは、校門から続く自動ドアの前で、まるで神殿の秘儀に遭遇したかのように立ちすくんでいた。
「扉が、開いた……わしが近づくと、音もなく……これは……空気を察して……いや、熱か? それとも……神の意思か?」
「センサーですよ、セ・ン・サー。温度でも声でもなく、人の“動き”を感知する機械。あ、これね、“赤外線”で——」
「せんさあ……? せんすい(潜水)とは違うな……」
説明を受けながらも、納得していない顔のアルキメデス。そんな彼の隣で松井は「うちの理科教師でもここまで喰いつかないのに……」と苦笑していた。
靴を履き替え、上履きを手渡されると、アルキメデスは不思議そうにそれを見つめる。
「これは……靴の中に、靴が?」
「上履きです。学校の中で履く専用。日本の文化です」
「文化……なるほど、内部と外部を履き物で区切るとは、まるで内と外の結界……理にかなっておるな。よろしい、受け入れよう!」
「そんな威厳ある声で言うことじゃないけどね!」
*
廊下を進みながら、彼は目に映るすべてを観察していた。
掲示板に貼られた時間割、教室のガラス窓、廊下に並ぶ掃除用具。
それぞれに、意味と秩序がある。中でも彼の興味を引いたのは——
「これは……何だ?」
理科準備室の前に置かれたペットボトルの山だった。
「細長き筒……だが、柔らかい。中に水が……いや、これは密閉されておる。浮くか? 沈むか? いや、それよりも……」
手に取った1リットルのペットボトルを、彼は窓際の光にかざす。
「この薄さ、この透明さ……まるで“軽さ”の工学だ。これだけの形状を保ちつつ、内部の液体の圧力を受け止めておる。凄まじい設計だ……!」
「いや、それただのミネラルウォーターですけど」
「なに? 水? この中身は……ただの、水!?」
「はい。“南アルプスの天然水”って書いてあるでしょ。水道水じゃなくて、名水のやつ」
「アルプス……水……!? なるほど! わしの定理は、山脈すら越えたか……!!」
どこまでも感動的な顔をして、ペットボトルの山に向かって拝礼するアルキメデス。
松井はもう、なにも言わなかった。
教室の前に立った瞬間、アルキメデスは立ち止まった。
中から聞こえてくる子供たちのざわめき、椅子を引く音、黒板を擦る音、そして——
「はい、次のページ開いてー。“浮力のしくみ”だよー」
その言葉に、彼の肩がびくりと動いた。
「ふ……りょく……?」
松井がドアをそっと開けると、20人ほどの生徒たちが一斉に振り返った。
彼らの視線の先には、茶色いローブ、サンダル、巻物(っぽい何か)を抱えた謎の男。
「えっ、なにあれ」「え、外国人?」「先生の知り合い?」「劇の準備?」「歴史の実写版?」
ざわざわと空気がざわめく中、松井が前に出た。
「はい、みんな静かに。今日から“特別講師”として、アルキメデス先生に来てもらいました!」
「……は、はい?」
「え、アルキメデスって、教科書の?」
「そう。あの“アルキメデスの原理”のね。本人、だそうです。たぶん」
生徒の中に失笑が走る。誰もが最初は冗談だと思った。
だが、その“本人”は、すでに教卓に歩み出ていた。
「ふむ。では、教科書とやらを拝見させてもらおう」
最前列の男子が、戸惑いながら自分の理科の教科書を差し出した。
アルキメデスはページをめくり、自らの名が書かれている箇所に目を止めた。
『アルキメデスの原理:浮かんでいる物体は、その排除した液体の重さと同じだけの浮力を受ける。』
「……………」
彼の手が、わずかに震えた。
「これは……わしの……言葉だ……!」
その声は、喜びというより、呆然とした確信に近かった。
「我が名が……書物に……それも、子どもたちに読まれている……?」
驚きと、感動と、説明不能な胸の奥のざわめきが、いっぺんに押し寄せた。
彼はゆっくりと顔を上げ、生徒たちを見渡した。
「諸君。聞いてくれ。わしの話は、三千年の時を越えて、そなたたちに届けられておるようだ。ならば——今ここに、あらためて語ろう」
そして、チョークを手に取ると、黒板に数式と図をすらすらと描き始めた。
斜面を滑る球体、容積と密度の関係、水中に沈めた立方体の絵。
さらに、実験器具として見せられた“蒸発皿”や“アルコールランプ”に、興味津々の様子で次々と論を展開していく。
生徒たちは最初ポカンとしていたが、やがてその語りの熱とスピードに引き込まれていった。
「あ、なんかすげー」「ちょっとわかんないけど、なんかすげー」「この人、ほんとにアルキメデスなの?」
松井は、その後ろでぼそっと呟いた。
「いや、むしろこれで偽物だったら、そのほうがすごいでしょ……」
—
そして授業が終わったあと。
アルキメデスは教室の端で一人、教科書を胸に抱えていた。
目を細めて、静かに微笑んでいる。
「……子どもたちは、我が名を笑わぬ。ならば……この世界も、悪くない」
その姿は、誰の目にも“満足した哲人”に見えた。
(第2話 完)
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