側転で始まる一日(と少しの悲劇)
「さあ、いくぞ!」
朝7時15分、山田賢一(29)は自室のラグの端に仁王立ちしていた。上はランニングTシャツ、下は謎のトラ柄短パン、そして彼の足元には、YouTubeで見た「側転の正しいフォームを3日で習得!」という動画が流れている。
「今日こそ、完璧な側転をマスターして通勤する!」
誰も頼んでいないし、社会的にも必要とされていないが、彼はそう思っていた。理由は昨日の飲み会である。
「賢一ってさ、ちょっと地味っていうか、なんかこう……エッジないよね」と後輩の美和に言われたのがきっかけだった。
ショックを受けた彼は、帰り道の電車内で「地味 男 脱却」「日常 派手な行動」などと検索しまくり、その結果「側転で出社してみたOLがバズった動画」に辿り着いたのだ。
「つまり……これが時代のエッジだ!」
気合いを入れた賢一は、軽く腕を回し、猫背を伸ばし、深呼吸をして――
「いざ、側転!」
バサァァァア!
ラグがめくれ、彼の足は思いきり観葉植物に突っ込んだ。
「アァァッ!パキラァァッッ!」
朝7時17分、パキラの生涯に幕が下りた。
**
パキラのことは気がかりだが、彼は出社をせざるを得なかった。
なぜなら今日は「月イチの全社朝礼」。課長の山田がプレゼンを担当する、いわば晴れ舞台。人生に側転が必要なら、それは今だ。
通勤路、公園を通り抜ける賢一はジャケット姿で小走りしていた。社内では堅実で通っている彼だが、今日は内ポケットに肘サポーターが隠れている。左足首には湿布。右の脇腹には違和感。
満身創痍ではないが、準備万端だ。
「ここだ!」
駅前の横断歩道前。赤信号のその瞬間、彼は両手を地面につき、側転の構えを取った。
「おじさん!なにやってんの!」
小学生に言われるが、彼は気にしない。
「俺の人生に横棒を描く、つまりそれが……今ッッ!」
彼は飛んだ。
……が、横断歩道の白線に足がもつれて、彼の体は半回転のまま着地。音もなく、膝から崩れた。
「あいたぁ……」
後ろから来た自転車にベルを鳴らされながら、彼は何食わぬ顔で立ち上がる。
「ただのストレッチです」
誰も聞いていない。だがそう言わなければ心が折れそうだった。
**
社に着いた賢一は、エレベーターではなく階段を選ぶ。
側転をしたくなる気持ちを抑えるためだ。
息を切らしながら6階の自分の部署に到着すると、すでに部内のメンバーがホワイトボード前で打ち合わせ中だった。
「おはようございます!今日も快活に!」
「うわっ山田さん……どうしたんですか、汗すごいっすね」
「通勤を……アグレッシブにしてみた結果です」
「は、はあ……」
誰もツッコまない。なんなら誰も目を合わせてこない。賢一はふと、鏡に映る自分の姿を見た。
ネクタイがズレ、左肘のジャケットが破けている。そして目の奥が笑っていない。
――エッジ、越えすぎた。
**
全社会議。社員100人が集うホールで、プレゼンの順番が回ってきた。
スクリーンには「営業部 課長 山田賢一」の名前。
「皆さん、おはようございます! 営業部の山田です!」
言いながらも、足元はややガクガクしていた。先ほどトイレで湿布を交換したばかりだ。
「えー、本日は“顧客満足のためにできること”というテーマで、まずはこちらをご覧ください」
賢一はリモコンを操作しようとしたが、その瞬間。
「……あっ」
腰がビキィィィィィィッ!
次の瞬間、彼はバッタリと床に倒れた。
「山田さーん!!」
騒然となる会場。数人が駆け寄る中、医務室係の清水さんが彼の顔を覗き込む。
「動けますか?山田さん、どうしてこんな無理を?」
「側転……しようとしたんです……エッジが、欲しくて……」
清水さんは絶妙な笑顔を浮かべて言った。
「エッジは、言葉でも作れますよ」
**
その後、プレゼンは美和が代行。彼の内容を補足しながら進めたことで、なぜか「チームの連携力が強い部署」として社長賞を受賞した。
山田賢一は、表彰式に車椅子で登壇し、笑顔で一言。
「人生に、側転はいらない。でも、助けてくれる仲間は、必要ですね」
拍手喝采。そして、その裏で社内では「側転課長」というあだ名がひそかについていた。
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