第20章:長野県「穂高の神々と蕎麦の里の知恵」
山梨から中央本線を北上し、アオイは長野県に入った。
澄んだ空気と、遠くに見える北アルプスの稜線。まだ雪をいただいた峰々は、まるで天と地をつなぐ柱のようにそびえていた。
駅前に立つと、蕎麦の香りがほのかに風に乗って届いてくる。
祖父の手帳には、こう記されていた。
——「蕎麦の里に、縄文の知恵眠る。穂高の神は、土に生きる者を見守る」
探すべき「古の欠片」は「縄文土器の破片」。自然と共に生きた先人の“知恵”が宿るという。
*
アオイは、安曇野の外れにある古民家を訪れた。
そこにいたのは、朴訥とした風貌の老人——ジロウ。
庭先には蕎麦の実が干してあり、軒先には干し柿と杵つきの臼が並んでいる。
「旅の人か。……おまえさんのじいさんの顔、忘れもしねえよ」
ジロウは、アオイの祖父と旧知の仲だったという。
「蕎麦はな、痩せた土地でも育つ。だからこそ、ありがてえんだ。人間も同じさ。あんまり肥え過ぎると、すぐ根が腐る」
ジロウはそう言って、そば粉を水で練り始めた。
「昔、縄文の連中がこの土地でどう生きたか。……知りたきゃ、山へ登れ。“岩の祠”に、答えがある」
*
翌朝、アオイはジロウの案内で、穂高の麓にある森へ向かった。
湿った落ち葉の匂い。鳥の鳴き声。登山道ではない古道を、苔むす石をまたぎながら進む。
やがて、木々の間から岩をくり抜いたような祠が姿を現した。
「ここが、昔の人が“神の座”と呼んだ場所だ」
岩の割れ目の奥に、小さな土器の破片が安置されていた。
アオイがそれに手を伸ばすと、虹色の欠片が淡く輝き、土器の破片がわずかに震える。
——ザザ……ザザァ……
森の風が一瞬止まり、代わりに“遠い時の音”が聞こえた。
アオイは、そっとその破片を掌に包み込む。
「……始まる」
ジロウが、背後で静かに呟いた。
アオイの意識は、土器の破片と虹色の欠片が触れ合った瞬間、遠い過去へと導かれていった。
そこは、山裾に小さな集落が点在する縄文の時代。
厳しい寒さの中、動物の骨を煮て命をつなぐ家族。土を練り、火を焚いて食器を作る女たち。山を越えて薬草を運ぶ若者たち。
誰もが言葉を交わすことなく、自然の流れに逆らわず、静かに“循環”の中で生きていた。
そして、火を囲む中央に、一人の長老がいた。
手にした土器に、何かを彫り込みながら、彼は天を見上げてこう言った。
——「土は我らの母、水は父。人はただ、借りて生きるものなり」
それは、知恵ではなかった。
“感謝”だった。
*
現代へ戻ったアオイは、静かに目を開けた。
祠の中で土器の破片がわずかに熱を帯びていた。
ジロウが、しばらく黙っていたが、ぽつりと呟く。
「……あんたのじいさんも、ここで同じことを感じたらしい。“蕎麦を打つのは、自然と語る儀式だ”って言ってたよ」
アオイは微笑む。
「わかる気がします。自然からもらって、生きて、それをまた返す。そのサイクルを意識すること自体が、祈りなんですね」
*
その日の夕方、アオイはジロウの古民家で蕎麦を打った。
水を加える加減、粉の香り、手のひらに伝わる“粘り”。
すべてが、自然と対話するような時間だった。
そして、湯気の立つ椀からすすった一口の蕎麦に、彼は思わず目を見開いた。
——うまいとか、しみるとか、そういう言葉じゃ足りない。
それは、“生きている味”だった。
アオイは、そっと手帳を取り出し、一行を記す。
——「長野:穂高の神々と蕎麦の里の知恵」
*
帰り際、ジロウはアオイの背中に声をかけた。
「“自然は先生だが、教えてくれとは言わねぇ”。……あとは、おまえさんがどう聞くかだ」
アオイは振り返り、深く頭を下げた。
山の稜線には、残雪が淡く光を返していた。
そして、手帳の次のページには、こう記されていた。
——「白川郷の屋根裏に、結の心が息づいている」
「岐阜……合掌造りか」
アオイは次の“知恵”を探して、また歩き出した。
(第20章:長野県「穂高の神々と蕎麦の里の知恵」完)
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