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下弦の月に、顔があった夜

 夜、満月のような明るさのない下弦の月が、空の端っこでしれっと浮かんでいた。
 そんな静寂の夜、団地五階のベランダに立つ男、名を三宅俊郎。四十七歳、バツイチ、スーパーの青果コーナー勤務、特技はリンゴの皮をスパイラルに剥くこと。最近、趣味として始めた「ひとり晩酌ベランダスタイル」が密かな癒しだ。

 その晩も、安ワインとチーズかまぼこを片手に、俊郎は下弦の月を見上げた。

「あれ……顔がある?」

 ふと目を凝らすと、月の下の方、ちょうどクレセントのカーブの内側あたりに、妙に整った顔が浮かんでいる。
 男か女か分からない、性別の曖昧な美貌。しかも明らかに俊郎を見ている。

「んあっ!? お、おれ酔ってる? ワイン3.8度って書いてあるけど、幻覚出るほどかこれ?」

 俊郎が慌ててラベルを再確認している間に、月の顔が、口を開いた。

『……なんか……退屈なんだよねー。』

 月が喋った。

 これは幻覚どころか、宇宙規模のトラブルかもしれない。

「……えーっと、いま……話しかけられてるんですかね?」

『そう。月だよ。下弦。よろしく。』

「な、なんかラフだな……月ってもっと厳かな存在だと思ってた……」

『いやいや、こっちも毎日浮かんでるだけでさー。そろそろイベントとか挟みたいっていうか……飽きた。』

 俊郎は、気まずい相手との飲み会で急に重い話題を振られた営業マンのような顔になった。
 そして無意識にかまぼこをもぐもぐした。

「イベントって……たとえば?」

『踊ってみたとか。あとはさ、最近“顔出し配信”って流行ってるでしょ? だからオレもさ、出してみた。』

「下弦の月の“顔出し”って、字面だけ見るとだいぶ怖いな……」

『ほらほら、どう? イケてる?』

 俊郎は思わず、月の顔に親指を立てた。
 すると月がパァッと明るくなった。ノリがいい。

『キミ、いい人だね。名前は?』

「三宅俊郎です。リンゴの皮剥くの得意です」

『……うん、思ったより地味だけど、なんか親近感あるわ。じゃあさ、お願いがあるんだけど――』

 そして、月はとんでもないことを言い出した。

『ちょっと、下界でバイトしてみたいんだよね』

「いや待って。月が“バイト”?」

『あたしさ、月の裏側の時間、めっちゃヒマなの。週3くらいでバイト入れたらちょうどいいなーって』

 俊郎はごく自然に、隣のベランダの住民を見た。
 その老婆(井口さん)は、ジャージ姿で月見酒をしていたが、まったく動じていない。
 たぶん聞こえてない。幻覚じゃないが、月の声は選んで聞かせてるらしい。
 この時点で俊郎の「現実センサー」は完全にバグった。

『さ、ということで、明日からよろしくー!』

「よろしくって、なにが!?」

 その晩、俊郎は月と契約を交わした。
 月、バイト希望。勤務先、スーパー青果コーナー。
 時給は850円、交通費なし、月は自力で光のワープを使って通うという。


 翌朝。

「おはようございます! 今日からバイトに来ました“つきのかお”です! よろしくお願いしまーす!」

 声が、でかい。

 まるでコント番組の新人登場のようなテンションで、月はスーパーのバックヤードに現れた。
 ちなみに姿は「半透明で、ちょっと発光する美形の顔だけ浮いてる」状態。

 主任の田所が言った。

「三宅くん……彼は……その……?」

「えーっと……親戚の……演劇部です。修行中で……はい、舞台稽古です」

 なにその言い訳。

 月(つきのかお)は、意外と仕事熱心だった。
 リンゴの袋詰めも完璧、声出しも完璧。
 ただし、ひとつだけ問題があった。

「このカボチャ……なにか哀しみの波動を感じる……」

 月が、スピリチュアル系バイトだったのだ。

「トマトに恋をしてたカボチャ……せつない……」

「もう黙っててくれる?」

 俊郎が言っても、月は「でも、カボチャの気持ちも……」と続ける。
 やがて客に向かってもやらかした。

「お客様! この大根! 生まれ変わったら……きっと……トルネードポテトになりたいって言ってました!!」

「なにそれ怖い!!」

 子供が泣いた。

 俊郎は、昼休みに月を外に連れ出した。

「おまえさ、バイト向いてないっていうか、下界に来るたび地球の評判落としてるよ?」

『でも……楽しいんだよねぇ……みんなと触れ合って……。ほら、宇宙ってさ、基本“間”だからさ……。』

「“間”って……」

『虚無っていうか、ナニモナイっていうか。“無”の再放送みたいな……。』

 俊郎は少しだけ理解した気がした。
 誰だって“顔を見せたい”時がある。
 黙って光ってるだけじゃ、やってられない夜もある。

「わかった、もう少しだけ頑張ってみようか。ただし、大根に語らせるのは無しな?」

『了解っす先輩!』

 その日、夜。

 俊郎がベランダでワインを飲んでいると、空にはいつもの“無表情な”下弦の月が戻っていた。

 でも、ほんの少しだけ笑ってるように見えた。

 そして、その下の団地の影では、大根がうっすら震えていた――。


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