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蟹江(かにえ)さん、横断歩道を渡らない。

 「……また蟹江さん、渡ってないな」

 朝の駅前交差点で、いつも一人だけ渡らない男がいた。信号が青に変わっても微動だにせず、道を横に、いや正確には“横歩き”で回避する謎のサラリーマン――それが蟹江さんだった。

「俺、カニだから」

 ある日勇気を出して話しかけたら、彼はそれだけを言った。

「え、えっと……?」

「うちの家系、代々、カニなんだよ。蟹江家のしきたりってやつでさ、正面突破は禁止。基本、横移動。縦の人生は危ないからね」

 あまりにも謎すぎて、笑ってしまった。が、彼の表情は真剣そのもの。名刺には本当に「蟹江 甲殻(こうかく)」と書いてあった。会社名は「横浜カニ物流株式会社」。どうやら本物の“カニ系”らしい。

「会社でもカニ歩きしてんの?」

「もちろん。会議室まで“横ばい”だよ。あと、資料はハサミで提出」

 なんのハサミ?

「ボクシング部にも所属してる。必殺技は“クラブパンチ”」

「それ、挟んでるだけじゃ……」

 だが蟹江さんの言葉に、私はある種の哲学を感じた。

「人間ってさ、正面からぶつかり過ぎだと思わない? 面接、恋愛、親子喧嘩……。正面突破じゃなく、“横からじわじわ攻める”ってのが、人生の真理かもって」

 あ、なんか刺さった。横だけど刺さった。

 その日から私は、彼の“横歩き思想”に少しずつ影響されていった。エスカレーターでは斜めに立ち、飲み会では話題に斜めからツッコミを入れ、上司には直接意見せず、横にいる後輩経由で伝言攻撃をするように。

 しかしある日、事件が起きた。

「蟹江さんが……正面から告白したらしいぞ!」

 それは職場中を駆け巡るビッグニュースだった。お相手は受付嬢の杉原さん。ふわっとした人で、「蟹の味噌汁は左手で飲む主義です」と言った翌週には右手で持っていた自由人である。

「どうしてもまっすぐ伝えたかったんだよ!」

 蟹江さんはそう言って、初めて“まっすぐ立った”。

 横歩きしか知らなかった男が、まっすぐ立った瞬間、世界が静止した。

 会社の自動ドアが止まり、エレベーターが「閉」ボタンの反応をやめ、カップ麺が熱湯を跳ね返す奇跡が起きた。誰かが言った。

「蟹が……立った」

 それは、まるで“カニの進化”だった。

 そして迎えた、告白本番。

「す、杉原さん……ぼ、僕と……よ、よ……」

「よ?」

「よ、横からお付き合いしていただけませんかぁああ!」

 惜しい。惜しすぎる。正面から行くと見せかけて、やっぱり横から行った

 だが、杉原さんは笑った。

「じゃあ、斜め45度くらいでお願いします」

 その日以来、二人は“ななめ付き合い”を始めた。付き合ってるのに正面から呼びかけるのは禁止。レストランでは隣の席、映画館でもひと席ずれて座る徹底ぶりだった。

 私はというと、ある日ふと気づいた。

 交差点で、人が立ち止まっていた。

「……あれ、蟹江さんじゃない?」

 また信号が青になっても、動かない。

 でもよく見たら――彼は斜めに、いや、ちょっとカーブしながら渡っていた。

「それ、もうただの蛇行では……」

 彼は言った。

「人生、まっすぐ行けとは言われるけどさ、曲がってナンボでしょ?」

 そして、ピースサインを横向きに掲げた。

 私はそっと、彼の斜め後ろを横歩きでついていく。

 ――カニとして生きる人生も、悪くない。


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