見出し画像

第37章 松山市:マツヤマノカミの願い

 松山の朝は、温泉の湯気とともに始まる。古き良き道後温泉本館の前には、白い浴衣姿の観光客がスマホを構えながら、タイルのひびにまでカメラを向けていた。どこかのんびりとしていながらも、どこかせわしない。そんな松山の町を、今日もマツヤマノカミはゆるりと見守っていた。

 彼は湯船のようにぬるま湯の精神を持つ神様で、願いを叶えるときには、決まって「温泉効果」を添えてしまう。心も体もぽかぽかに。だが、たまに“のぼせ”させるくらい効きすぎるのが、マツヤマノカミのクセだった。

 この日、神様は足湯にぷかぷかと浮かびながら、竹筒で湯をすくっては眺めていた。

「今日も湯加減、悪くないなあ……」

 そのころ、町の観光案内所で働く善は、カウンター越しに深いため息をついていた。彼は真面目で、自分にだけ妙に厳しい。どんな小さなミスも、自分で拾い集めて「次こそ完璧に」と思い詰める性格だ。

 善は心の中でぼやいた。

「……もう少し、リラックスして仕事ができたらいいのに」

 その“ゆるめの願い”をマツヤマノカミが聞き逃すはずがない。

「ふむ……そろそろ湯の効能、注入すっか……」

 ポチャン。マツヤマノカミは、温泉卵を湯船にそっと落とすように、小さな願いを町に溶かし込んだ。

 その瞬間から、善の周囲がぽかぽかとし始めた。

 まず、毎朝5分前行動を義務化していた観光案内所のスタッフたちが、全員1分遅刻するという奇跡のズレ方を見せた。

 「いいじゃない、1分くらい」と笑って許したのは、早紀。笑いの沸点が異常に低く、パンダのうちわで顔をあおぎながら「ハッ、ぷっ、うへへへ」と笑い続けるタイプの人間だった。

 「笑いすぎて腹筋痛い……けど、楽しいねぇ」と、早紀は善の神経質な空気を和らげた。

 しかし、ぬるい空気を苦手とする者もいる。

 それが泰虎。野心むき出し、スーツにアイロン、靴にワックス。出世の香りを漂わせながら歩くタイプである。

「このままじゃ観光案内所のレベルが下がる。ぬるま湯に浸かってるような態度じゃダメだ」

 そう言って、毎朝「朝礼5分でやる気MAX!」というポスターを自作して掲示板に貼った。だが、その下にいつの間にか貼られていた張り紙には、こう書かれていた。

《朝礼前に5分湯豆腐休憩を入れてみませんか?by 妃代》

 妃代は、つい頑張りすぎるタイプ。だからこそ、自分も他人も壊さないように、“ちょっとだけ”緩める提案をすることが多かった。

 その結果、朝礼の前に“温泉成分入りの湯豆腐を食べながら聞く”という謎の文化が発生。参加者の眠気は加速した。

 善は思った。「あれ? なんかちょっと違う方向に進んでないか?」

 だがもう、遅かった。

 町全体が緩やかな湯気に包まれ始めたのだ。

 道後温泉の足湯スポットには、なぜか知らないおじさんが一日中座り込むようになり、「観光してるんですか?」と聞くと「いや、ここで生きてるだけです」と返ってくる。

 温泉まんじゅう屋では「まんじゅう売るの、今日の午後からでいいや」と言い出す者が現れ、観光パンフレットの表紙がなぜか「ゆるくて、なにが悪い?」に変わっていた。

 マツヤマノカミは、湯の温度を測りながら満足げに笑った。

「ええ感じに、ぬるくなってきたわ……」

 だがそのとき、善が思い切って祠の前に立ち、小声でつぶやいた。

「ちょっと、効きすぎじゃないですか……?」

 その声に、神様の眉がぴくりと動く。

 湯船の底から顔を出し、ふよふよと浮かんできたマツヤマノカミが答えた。

「ぬるいくらいが、ちょうどええねん。でもな、湯にも限界がある。長湯はのぼせるさかい……ちょっと冷ますか」

 神様が指をチョンと振ると、空気がすっと引き締まった。

 ぬるすぎた町に、少しだけキリッとした風が吹き始める。

 善はその風を頬に受けながら、もう一度自分の願いを思い返した。

「そうか、リラックスって、全部ゆるめることじゃないんだな。自分のペースでやれる空気が、いちばん気持ちいいんだ」

 その頃、妃代は「つい頑張りすぎて」もう一つ張り紙を追加していた。

《“がんばらない”も、頑張るのうち!》

 泰虎はそれを見て、「それ、名言っぽいけど意味がわからん!」と全力でツッコみ、早紀は笑いすぎて背中を壁にぶつけて転がっていた。

 神様はそれをすべて眺めながら、道後温泉本館の煙突からゆっくりと立ち上る湯気に溶けていった。

「ゆるさの中に芯がある、ええ町になってきたわ……」

 そしてマツヤマノカミは、また一つ、小さな願いをふわりと聞き届ける準備を始めた。

いいなと思ったら応援しよう!

Goldness 楽しんでいただけることが一番の喜びです。いつもご覧いただき、ありがとうございます!これからも、皆さんと一緒に素敵な時間を共有できるように、より一層努力していきます。