第40章 大分市:オオイタノカミの願い
別府の朝は、湯気とともに始まる。旅館の屋根から立ち上る湯けむりが、空に柔らかく溶けていく。町全体が蒸しタオルのような湿度に包まれており、歩いているだけで肌がぷるぷるになる、と噂されるほどだ。
そんな町の片隅、ひときわ控えめな鳥居をくぐった奥の足湯のそばに、ひょこっと腰を下ろしている神様がいた。
白い浴衣に金色の帯、木の葉で作ったような団扇を持ち、目を細めて湯をじっと眺めている。
オオイタノカミ――温泉の守り神である。願いを叶えるときは、必ず「温泉効果」付き。つまり、ぽかぽかして、ほぐれて、気持ちよくなりすぎて、たいていの人は“どうでもよくなってしまう”という副作用がある。
「今日も湯加減、ええなぁ……もうちょっとぬるめでもええかな……」
そんなのんびりとしたつぶやきをしていると、鳥居の下からひとりの若者がやって来た。
彼の名は遥真。地元の高校に通う生徒で、温泉街の観光ボランティアに参加している。穏やかな顔つきで、誰にでも「うんうん」と話を聞くのが上手く、よく知らない観光客からも“お兄ちゃん、これどこ行ったらええの?”と話しかけられるタイプだった。
この日も、ふらりと神社に立ち寄り、足湯にそっと浸かりながらぽつりとつぶやいた。
「なんか最近、みんなイライラしてて……もう少し、町が落ち着いたらいいのに」
その言葉を聞いた瞬間、湯の表面にふわりと輪が広がった。
オオイタノカミが目を開き、「ふぅ……お湯、まわそか」とつぶやくと、町全体にじわじわと“温泉効果”が浸透し始めた。
翌日――。
まず、観光案内所で喧嘩をしていた二人のスタッフが、言い争いの途中で突然「なんか、どうでもよくなった」と言い出し、肩を揉み合い始めた。
次に、近所の交差点で信号無視しそうになったおばあちゃんが、「なんやろ、今日はゆっくり歩きたい気分」と言ってベンチに座り、持参の温泉卵を割って食べ始めた。
町が、異様に穏やかになっていた。
「これ、温泉じゃなくて……神様か?」と疑ったのは、理沙。遥真の幼なじみで、マイペース極まりない性格。物事の変化には鈍いくせに、「自分に関係ある」と気づくと早い。
理沙は、ぼーっとお湯に足を浸しながら、遥真に言った。
「最近、みんな丸くない?」
「うん……ちょっと、過剰かも」
「これ、あんたがなんか“言った”でしょ?」
「いや、ただ“落ち着いてほしい”って」
「“ほしい”だけで、町が煮物みたいになってんの、すごくない?」
理沙のツッコミに、遥真は苦笑するしかなかった。
そのとき、通りがかったのが智吏。理沙の友人で、状況に応じて柔軟に動けるタイプ。職場では“便利屋”扱いされているが、本人はそれをまったく気にしていない。
「おお、ここの足湯ぬるくてちょうどいいな。で、何の会議中?」
「町がほぐれすぎてて、たぶん神様の仕業かもしれないって話」
「ほう……なるほど……湯加減で社会が溶けてるのか。オオイタおそるべし」
智吏が足湯のふちに腰を下ろし、「ま、こんなふうに全部がゆるゆるってのも、悪くはないけどね」と笑う。
だがそこに、現実の冷水を差すように登場したのが、ハヤカだった。彼女は遥真のクラスメイトで、なにかにつけて現実的な助言をしてくる女子。やや口調はきついが、根は優しい。
「……町がゆるいのはいいけど、このままじゃ経済活動もゆるんで沈むわよ?」
足湯のぬるさに顔を緩めていた理沙が、「ぬおっ」と体を起こす。
「それ言われると……たしかに……」
遥真は焦った顔でオオイタノカミの祠を振り返る。神様はというと、相変わらずのんびりと湯に浸かっている。湯船から顔だけ出して、こちらを見ているのか見ていないのかもわからない。
遥真は、足湯のふちで神様に向かってつぶやいた。
「……あの、ちょっとだけ効きすぎてるかもです」
その声に、湯の表面がすうっと揺れ、オオイタノカミがぬるりと起き上がった。
「……おお……やっぱり……のぼせてしもたかぁ……わるいなぁ……ほな、冷やしとくか」
その瞬間、町に新たな“効果”が発動した。
とある温泉旅館では、「源泉の温度がちょっとだけ下がったので、アイスを無料サービスします」という貼り紙がされ、観光客が殺到。
駅前の足湯は「冷泉足湯」へと突然リニューアルし、「ぬるくてスッキリ」とSNSで話題に。
さらには、町内の飲食店が「温泉の湯気をイメージしたふわふわメレンゲランチ」とか「湯けむりモクモクパフェ」など、“温泉”をテーマにしつつもしっかり経済活動を再起動。
ハヤカはその様子を見て、腕を組みながらうなずいた。
「……よし、これなら町もほぐれすぎずに、ちょうどよく循環する」
智吏は笑った。
「君の評価軸、温泉地なのに経済寄りすぎじゃない?」
「大切でしょ。バランス」
そして、理沙は「まー、これで私も、もうちょっとマイペースに生きてていいってことね」と再び足湯にどっぷり浸かり、顔が3割増でとろんとした。
遥真は、静かになった町を見渡した。
人々は穏やかに笑い、足湯に浸かり、ほんのちょっとだけ立ち止まっていた。それは、彼が願っていた“落ち着き”そのものだった。
オオイタノカミは、また湯船に身を沈めながら、つぶやいた。
「願いはな、効かせすぎたら、のぼせるんや。ほんまは、あっためるくらいでええ」
その声は風に紛れ、聞こえたのかどうかもわからなかったが、遥真はなぜか安心した顔で目を閉じた。
大分の町には今日も湯けむりが立ち、神様は静かに次の“ちょっとだけの願い”を待っている――。
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