第111章 下関市:シモノセキノカミの願い
潮風が、ちょっとだけ塩っけを帯びて吹いていた。関門橋の下、ふぐの香りが立ちのぼる市場の一角に、その神様はのれんの奥にいた。
「……今日は、フグの身がよぉ、少し厚めに切れてんだわ」
陽気で男気あふれるシモノセキノカミは、板前でもなければ漁師でもない。ただの白い作務衣姿の神様である。だが、願い事が潮風とともに吹き込んでくれば、手元の包丁を握るフリだけはする。
その日、やって来たのは、観光で関門海峡にやってきたカップル……ではなく、妙に目つきの鋭い若い男・遼太郎と、手元のメモ帳に「河豚」「願」「割引券」とだけ走り書きしていた謎の女・淳穂だった。
「すみません、この“フグ願成就券”って、ここで使えます?」
遼太郎が出したのは、地元の観光協会がふざけて配布した謎のチケット。表面にはでかでかと「願いを込めて食べよう、当たるも八景、当たらぬも無毒」と書かれている。完全に不安しかない。
「使えらぁな!願いを添えてくれりゃ、ひとくちぶん多くなるって寸法よ!」
そう言って笑う神様の顔はまるで威勢のいい魚屋。だが、なぜかその場の空気がピリッと引き締まる。ふぐの毒にあてられたのではない。これは、何かが始まる気配だ。
「じゃあ願います。俺、出世したいんです。営業部で課長になりたい!」
遼太郎が鼻息荒く宣言すると、シモノセキノカミは片眉を上げた。
「そりゃまた、潮の流れが読めねえ願いだな。課長になるってのは、泳ぎの速さだけじゃねえ。どの潮に乗るかが大事なんだ」
「海の話されてもわからないっすよ……」
「わからなくても願いは叶えてやらぁ。ちょっとだけな」
そして出されたふぐ刺しは、なぜか花びらのように並ぶ中に、ひときわぶ厚く切られた一枚があった。なんか……違法の厚さでは……?と思いつつ口にした遼太郎は、その数秒後に突然机を叩いた。
「わかった!!オレ、島田部長の靴を毎朝磨きます!」
「潮目が見えたな」
神様が満足げにうなずいた。なぜ急にそんな“体育会系気づき系サラリーマン”になったのか、理由は謎である。
一方、淳穂はずっと何も喋らず、ただメモ帳に「毒気…薄い…出世欲…濃い」と記していた。
「お嬢さん、お前さんの願いは?」
「私は……フグを一口食べるたびに、他人の嘘が分かる能力がほしい」
「なっ!?それ、もはや恋愛詐欺師の対策じゃないか!」
「いえ、職場の会議が嘘だらけでして」
神様は「まぁ確かに潮流はドロドロしてるときもある」とうなずきつつ、別の皿を出した。そこにはふぐの皮が細く細く細く刻まれて山になっていた。
「これを食えば、目が覚めるぞ。いろんな意味でな」
淳穂は静かにその皮を口に入れると、ピクリと目を見開いた。
「……部長、あれ嘘だったのか……“検討します”ってやつ……!」
「潮が引いていくと、海底が見えるってな。怖ぇだろ?」
ふたりは妙に感謝しながら市場をあとにした。その背中に向かって、シモノセキノカミは、鯖缶のフタみたいな笑顔で手を振った。
そして、もう誰もいなくなった店先で、ひとりごちた。
「願いなんてのは、ほんの少し味があればいい。あとは……潮の流れ次第よ」
その夜、関門海峡の水面は静かに波打ち、ふぐが一匹、ぴょんと跳ねた。
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