⏩早送りボタンのある生活⏩
人間が「巻き戻し」より「早送り」をしたがるのは、思い出より“面倒”が多いからだ。
――これは、現代に生きるひとりの男が“早送り”を得てしまった悲喜劇である。
斉藤一徹、35歳。家電量販店勤務。
毎日の時間の流れが遅い。
朝の出勤、昼の昼休み、上司の小言、クレーム処理、全部遅い。時間が粘土のようだ。
ある日、倉庫整理中に「早送りボタン付き目覚まし時計(試作品)」を発見する。
「…なにこれ、ギャグ?」
「押すと生活が早送りになる」と説明書に書いてある。
「人生、せめて午後の会議だけでも飛ばしたい」――誘惑に勝てず、ボタンを押した。
その瞬間、景色が“ザザッ”とブレる。
上司の「きみぃ~~これなんだけどぉぉぉ……」が、2倍速の金切り声に変わる。
昼食のコンビニ弁当が、自動で口の中に入ってくる。
お腹は満たされたが、味の記憶はない。
「……!」
そこから彼の“早送りライフ”が始まった。
・満員電車→早送り
・天気予報の「ハワイの気圧はですね……」→早送り
・「今週末の予定、空いてる?」→早送り(彼女談)
なんと、人間関係も飛ばせることが判明。
そのうち彼は、逆に通常スピードの世界が耐えられなくなる。
「え、まだ朝礼してるの?長っ!」
「まだ3分しか経ってないの!? 嘘だろ!?」
親しい人の話す言葉さえ、のろのろに見えてくる。
同僚の木下に言われた。
「斉藤さん、最近ずっと“早送りの顔”してますよ」
「どんな顔だよ」
「たぶん“何を聞いても返事だけ早い人”の顔です」
ある夜、母から電話。
「お母さんね、さっきちょっと転んじゃって……」
早送り。
「病院は大丈夫なんだけど、少しだけ聞いてくれる?」
早送り。
「お兄ちゃんはまだ独身でしょ?お見合いの話……」
早送り。
電話を切って気づく。
あれ、何も覚えていない。
翌朝、早送りのまま出勤しようとした彼は、途中でつまづいた。
公園のベンチで、鳩がゆっくり餌をついばんでいた。
あまりに“スロー”なその様子に、逆に感動してしまった。
「……あ、そっか」
彼は気づいた。
人生、ゆっくりだからこそ、記憶に残る。
あの昼食の味も、母の声も、恋人の“間”も、早送りでは受け取れなかった。
彼は時計を取り出し、停止ボタンを押した。
世界が、戻った。
上司の声はまた金切声ではなくなり、
恋人は「急にどうしたの、ちゃんと聞いてくれるの?」と目を丸くした。
斉藤は笑った。
「やっぱり君の話は、ちゃんと等速で聞きたいからさ」
すると彼女は言った。
「……え、なに急に気持ち悪っ」
斉藤は泣いた。
そして今日もどこかで、誰かが「早送りしたい」と願ってる。
でも一徹は言いたい。
「たまに早送りしたい日もある。けど、ちゃんと聞ける時に聞くことも、大事だぞ」
録音も録画もされない人生だからこそ、速度は自分で選ばないといけない。
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