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第11章:埼玉県「川越の時の鐘と龍神が守る水の記憶」

 春の陽射しが街並みに優しく降り注いでいた。
 群馬から列車を乗り継ぎ、アオイが降り立ったのは埼玉県川越。かつて「小江戸」と呼ばれたこの町は、今も江戸情緒を色濃く残し、どこか懐かしい空気を纏っていた。
 蔵造りの通りを歩くと、黒漆喰の建物が並び、その屋根の上にぽつんと、時の鐘の姿が見えた。
 「……これが“時の鐘”か」
 祖父の手帳には、川越の地に関する記述とともに、こう書かれていた。
 ——「時の鐘は、龍の背に乗りて鳴る。水の記憶を刻む鐘」
 アオイは手帳を閉じ、時の鐘の方へ歩き出した。
 鐘の下に立つと、ひとりの老婆が、柱の掃除をしていた。白髪をすっきりまとめ、腕まくりをしたその姿は、どこか凛としていた。
 アオイが声をかける。
 「こんにちは。“タエさん”ですか?」
 老婆は顔を上げ、アオイを見つめた。
 「……あんた、旅人だね。“虹色の欠片”を持ってる顔をしてる」
 「えっ……!」
 タエは、口元を綻ばせた。
 「昔ね、似たような若者がここに来てね。あたしに“時の鐘を守ってくれ”って言ったのさ。……その人が、あんたの祖父だったのかもしれないね」
 アオイは頷き、手帳を見せた。
 「“時の鐘の小さなかけら”を探しているんです。水の記憶と関係があるって……」
 タエは、ゆっくりと鐘の内部へと続く階段を指さした。
 「ついておいで。あたししか知らない“鳴らぬ鐘”の部屋がある」
 

 
 鐘の内部は、木造の急な階段と、梁が軋む音に包まれていた。最上階にたどり着くと、そこには鳴らなくなった古い鐘と、埃をかぶった木箱がひとつ。
 タエが蓋を開けると、中には古びた金属片があった。
 「これが、“欠片”。昔、火事で一度鐘が焼け落ちたときに割れた破片なんだとさ。龍神信仰の古い碑にも、“時を失うと水も怒る”って記されてる」
 アオイが欠片に触れた瞬間、「虹色の欠片」が共鳴し、空間が淡く震えた。
 耳元で、微かな水音のような声が聞こえた。
 ——わたしは水。すべての記憶を流してきた。
 ——だが時の流れが乱れると、わたしもまた、行き場を失う。
 アオイの心に、川越の街を流れていたかつての水路の情景が浮かぶ。
 そして、そこに宿る龍の姿——水を司る龍神が、人々の暮らしを見守っていた。

 鐘の欠片が虹色の光を受けて静かに震えると、アオイの意識はゆるやかに過去へと導かれた。
 そこには、まだ今ほど舗装もされていない川越の町並みと、水路を流れる澄んだ水。そして、水辺にたたずむ子どもたちの笑い声。
 水は、この町の“血流”だった。
 飲み水、洗い物、農業、そして火消し——生活のあらゆる場面に、水は欠かせなかった。
 そして、町の人々はその水を“神”として崇めていた。
 川のそばの小さな祠に、毎朝手を合わせていた老女。遊び場の水辺を清掃していた少年たち。人々は“生きること”と“水を守ること”を、同じ行いとしていたのだ。
 しかし——
 時代が進むにつれて、コンクリートが水路を塞ぎ、蛇口から出る水がすべてとなった。
 人々は祠を忘れ、水に感謝することをやめた。
 

 
 アオイが意識を戻すと、タエが黙って鐘の外を見つめていた。
 「昔ね、水が町を救ったことがあったのよ」
 「火事、ですか?」
 「そう。大火のとき、水路から水を汲んで、鐘が燃えるのをみんなで止めたの。だから、鐘と水は“兄弟”だった。時が鳴れば、水も流れる。流れれば、命が守られる」
 タエはそう言い、アオイの手に欠片を戻す。
 「今の川越は便利だけど、水が怒ってる気がするのよ。開発で地下水が減って、井戸も枯れ始めてる。……龍神が、“時を戻せ”って、呼んでるのかもしれないね」
 アオイは深く頷いた。
 「……これは、ただの欠片じゃない。“失われかけた暮らしの記憶”そのものだ」
 手帳に書き記した。
 ——「埼玉:川越の時の鐘と龍神が守る水の記憶」
 タエが、時の鐘の階下までアオイを送る途中でぽつりと漏らした。
 「街は変わる。でも“祈り”だけは、忘れずに残しておかないとね」
 アオイは、手にした欠片のあたたかさを感じながら、再び旅路へと向かった。
 

 
 次なる目的地は、千葉——房総半島の海。
 祖父の手帳には、「海女」「浦島太郎」「真珠の鱗」の言葉が並んでいた。
 アオイは、街の喧騒を後にしながら、静かにこうつぶやいた。
 「……海に、約束を返しに行こう」
(第11章:埼玉県「川越の時の鐘と龍神が守る水の記憶」完)


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