第54巻 町田市:マチダノカミの願い
小田急線の町田駅を出て、ふらりと住宅街の方へ歩いていくと、ちょっとした坂道に「不動のベンチ」と呼ばれる謎スポットがある。
ベンチといっても、そこに座って何かが起きるわけではない。ただ、たいてい誰かがそこで昼寝していたり、文庫本を読んでいたり、パンくずをこぼしてハトに囲まれていたりする。
そしてその中には、まぎれて神様がひとり、じっとしている。
「……風、今日もやわらかいなあ」
これが、町田ののんびり神様――マチダノカミである。年齢不詳、性別もおそらく植物寄り。見た目は完全に「座ってるだけのパーカー男子」だが、ベンチの苔と同化してるので、気づく者はいない。
ある日、通りかかったのは、会社を辞めて町田に戻ってきたばかりの男・束颯(そくさ)。彼はキャリア再構築のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
「――ああ、もう何すりゃいいのかわかんねーよ」
ベンチに腰を下ろした束颯は、空を見上げた。
すると隣からぼそっと声が聞こえた。
「何かする必要、あるの?」
「は?」
「今、風、気持ちいいじゃん」
「いや……誰?」
「神様だよ」
「えっ、神様ってもっと、こう……鈴とか鳴らして登場するもんじゃ?」
「うるさいの、苦手でさ。そもそも、急ぐことって、疲れるんだよね」
束颯は眉をひそめた。神様がのんびりしすぎている。
「いや、俺の願いは“もう一度、人生に勢いつけたい”っていうか……」
「そっか。じゃあ、とりあえずプリン食べよっか」
「話、聞いてました?」
神様はコンビニの袋から「たまごプリン(なめらか)」を取り出し、無言で差し出してきた。つい手を伸ばして受け取る束颯。
「……あ、うま……ていうか、なんでプリン?」
「急がず、焦らず、とろけるままに。ほら、プリンってそういうもん」
「いや、プリンで自己啓発すなよ」
「人間、何かを変えようとするときって、だいたい力みすぎ。まず“変えなくてもいいかもな”ってとこから始めたほうが、逆に変わるって知ってた?」
「知らんかった」
「うん、俺も今思いついた」
神様、わりと適当だ。
束颯はそのあとも神様に促されて、公園で散歩したり、カフェで何もしなかったり、雑貨屋で意味のないマグカップを見たりした。
どれも「キャリア再構築」とは無縁な日々。けれど、妙に心がほどけていく。
一週間後、ふと町田市の地域掲示板で「高齢者向け散歩アプリ」の試験運用の記事を見かけたとき、彼の脳内に“ひらめき”が降りてきた。
「これ、俺、作れるかも」
スマホを握る手に力が入る。そのとき、神様がいつものようにベンチで昼寝していた。
「神様、願い……ほんのちょっとだけ、効いた気がする」
「そっか。じゃあ、今度はプリンじゃなくて、プリンアラモードにしようねぇ……」
「レベルアップの方向が甘味なんだよな……」
そうつぶやきながらも、束颯は笑った。
何もしていないように見えて、すこしずつ整っていくものがある。そういう街が、町田なのかもしれない。
いいなと思ったら応援しよう!
楽しんでいただけることが一番の喜びです。いつもご覧いただき、ありがとうございます!これからも、皆さんと一緒に素敵な時間を共有できるように、より一層努力していきます。