第5章:秋田県「なまはげの教訓と雪国の生命力」
列車を降りた瞬間、アオイは身をすくめた。吹きつける風が肌を刺し、空気はまるで氷のように鋭かった。宮城を出てからわずか数時間。だが、秋田の冬は、ひときわ重く、深かった。
向かう先は男鹿半島。
アオイの手帳には、「なまはげ」「雪」「鬼面」「生命力」という言葉が書かれていた。旅の中でもっとも謎めいた記述だった。だが「木彫りの鬼面」が“古の欠片”であることは明記されており、その面が、今もどこかの集落に祀られているらしい。
「なまはげって……子どもを泣かせるための鬼の仮装じゃなかったっけ?」
つぶやきながら、彼はバスに乗り換え、雪原を越えて海沿いの集落へ向かった。
*
男鹿の集落に着いた頃には、陽が傾き始めていた。
海風が唸り、雪が斜めに吹きつけてくる。その厳しさの中で、木造の家々が身を寄せるように建ち並んでいた。
その中の一軒——軒先に手作りのなまはげ面が飾られた古民家を、アオイは訪れた。
「……おお、客か。よう来たの」
玄関を開けたのは、しわだらけの顔に赤ら顔を浮かべた老男だった。名をゲンゾウという。彼の背後から、穏やかな笑みをたたえた老女、ハルが顔を出した。
アオイは自己紹介をし、祖父の手帳の話をした。老夫婦はすぐにその名に反応を示した。
「覚えてるよ。あんたのじいさん、ずいぶん昔に、冬のど真ん中に来てな……“なまはげの心を知りたい”って、毎晩のように雪の中を歩いてたわ」
「……なまはげの心?」
ゲンゾウは囲炉裏に薪をくべ、火の粉を見つめながら語り始めた。
「なまはげっちゅうのはな、ただの鬼じゃねえ。来訪神だ。“怠け者はいねが〜”って叫ぶのは、子どもを脅すためだけじゃねえ。村にとっちゃあ、あれは“鏡”みてぇなもんなんだ」
「……鏡?」
「そう。人間が、自分で気づかんうちに怠けちまった心とか、忘れてる努力とか、そういうもんを思い出させるための存在よ」
アオイは、静かに祖父の手帳を開いた。
“なまはげの面に宿るのは、怒りではなく願い。見守ること、叱ること、そして共に生きること”
そう、書かれていた。
「じいちゃん……あの冬、ここで何を見たんだろう」
ふと、アオイのリュックの中で「虹色の欠片」がかすかに光った。
その夜、アオイは囲炉裏のそばで、老夫婦と湯気の立つ鍋を囲んだ。きりたんぽ、舞茸、比内地鶏。雪深い土地で育まれた食材が、芯から温めるように体を満たしていく。
ハルが、箸を置いて口を開いた。
「……この村ではね、“本物のなまはげ”が現れるって言われてるの。毎年、大晦日の夜、静かな雪の中に」
「え? それって、行事としての仮装じゃなくて……?」
「ううん、違うの。“誰がやってるか分からない”って言われてるの。気づいたときには、家の前に足跡が残ってる。声を聞いたって人もいるけど、誰もその姿を見てない」
ゲンゾウが笑った。
「まぁ、そんなこと言うとオカルトっぽいがな。けど、わしも若い頃、一度だけ会ったんだ。……“怠けるな”って、真正面から怒鳴られた」
「それ、誰かのイタズラじゃ……」
「……ちゃうな。あれは、声じゃない。心に響く“念”だった。体の芯を突き通す、冬の雷みたいな声だったよ」
アオイは、言葉を失った。
——怠けるな。
どこか、自分にも刺さる言葉だった。
大学を出て、なんとなく就職して、でも上手くいかずに辞めて、実家に戻ってきた自分。
旅に出たのも、祖父の手帳と欠片の不思議に惹かれたからではあったが、心のどこかに“逃避”がなかったとは言い切れない。
「怠けるな」——それは、自分自身への言葉でもあった。
*
夜更け。外は吹雪になっていた。
アオイは、ゲンゾウの案内で、かつてなまはげの伝承が生まれたという“鬼の洞窟”へ向かうことになった。
「大丈夫か? こんな夜に」
「今しかない気がするんです。……なまはげに会えるなら、俺、逃げないって決めたから」
ゲンゾウは、静かに笑った。
洞窟までは、雪深い道のりだった。地吹雪が足元を奪い、顔に突き刺さる。
やっとのことで洞窟に辿り着いた時、アオイの耳に、遠くから風に乗って低い声が聞こえた。
——怠け者はいねが……。
空耳ではなかった。
「……来てるな」
ゲンゾウが小さく呟いた。
その瞬間、アオイのポケットの中で「虹色の欠片」が激しく光った。
足元の雪が、不意に揺れる。洞窟の奥から、ぶわっと風が吹いた。氷のような冷気と共に現れたのは——人か、影か、鬼かも定かではない。
だが、その手には、木彫りの面が握られていた。
“それ”が、アオイにまっすぐに向かって言った。
「おまえは、何を怠けてきた?」
その声は、外ではなく、アオイの内側に響いた。
凍てついた洞窟の中で、アオイは立ち尽くしていた。目の前に佇む“なまはげ”——それが幻なのか、あるいは精霊そのものなのかはわからなかった。
だが、問いかけは確かにアオイの胸を貫いた。
「おまえは、何を怠けてきた?」
耳ではなく、心で聞いた問いだった。
アオイは、答えを探した。いや、探すまでもなかった。
自分の中に眠っていた“言い訳”。「まだ本気を出していない」「チャンスが来れば頑張れる」「環境が悪かった」——そうして自分をごまかし続けてきた。
でも——
「……俺は、逃げてました」
アオイは、震える声で応えた。
「本気で向き合うのが怖くて。何もかも、誰かのせいにしてた。だけど……じいちゃんの手帳と欠片が、俺に教えてくれたんです。ちゃんと、自分の足で旅をして、見て、感じて、学べって」
“なまはげ”は、何も言わなかった。
ただ静かに、手にしていた木彫りの面を差し出してきた。
アオイがそれを受け取ると、面がぼうっと温かく光り、「虹色の欠片」と共鳴を始めた。
雪と氷に閉ざされた洞窟に、淡い虹色の光が満ちる。
アオイの手の中で、木彫りの鬼面は“欠片”へと変化した。
——怒りではなく、希望の象徴として。
*
翌朝、洞窟から戻ったアオイは、ゲンゾウとハルに報告した。
「……なまはげに会った気がします。いや、“自分”に会いに行ったのかもしれません」
ゲンゾウは、目を細めて頷いた。
「それでいい。“なまはげ”ってのは、人の心が作り出す“生きる力”の象徴なんだ。怠け者を責めるんじゃねえ。“目を覚ませ”って叫んでるのさ」
ハルが、優しく言葉を添えた。
「それをちゃんと受け取ったなら、あんたの中にも“なまはげ”が住んでるよ。きっと、この先も背中を押してくれる」
アオイは、鬼面をそっと抱きしめた。
*
バスに乗る直前、吹雪は止み、空が一瞬だけ青く晴れた。
白銀の世界の中に、微かな虹がかかった。
アオイは手帳を開き、ページの余白にこう書き記した。
——「秋田:なまはげの教訓と雪国の生命力」
次の目的地は、山形。出羽三山、修験の道。そして、山に宿る神々との対話。
アオイは、確かに“少しずつ変わっている”自分を感じながら、前を向いた。
(第5章:秋田県「なまはげの教訓と雪国の生命力」完)
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