『校長、あせあせ大作戦』
――午前八時二十五分。都内のとある公立中学校。
始業のチャイム五分前。校庭には吹奏楽部の音が鳴り響き、教室にはプリントを配り終えた先生が椅子に腰掛け、にっこり笑っている時間だ。
だがその日、職員室の隅っこでは一人の男が、絞られた雑巾のように机に顔を伏せていた。
「……終わった……終わったぞ……もう校長を名乗れぬ……」
男の名は古澤政宗。五十八歳。職歴三十七年の大ベテランであり、この学校の校長である。
だが、その姿勢はまるで職を追われた研究員。まるで、教育委員会に焼き土下座を決め込む直前の男。
理由は、ただ一つ――
「全校朝礼の原稿、書き忘れたああああぁあああ!!」
地鳴りのような叫びが、職員室を揺らす。となりの若手教諭が思わずボールペンを落とした。
「校長先生!? え? 朝礼……あと五分で始まりますけど!? 何かご病気で?」
「違うんだ山根くん。これは病じゃない。これは、ただの……慢心だ……!」
いや、そんな悟りモードいらない。山根は内心ツッコミつつも、校長の肩をバシバシ叩いた。
「い、いまから何か書きます!? それとも、ええと、ネットで適当な名言を引っ張ってきて……!」
「ダメだ、引用ばかりでは誠意がない! 今朝のネタで、即興でしゃべるしかない……いや、それも安直だ……でも……」
「校長、あせあせしてる場合じゃないですよ!!」
「それだ!!」
「えっ」
「“あせあせ”だ! これをテーマに、今朝の全校朝礼は乗り切る! いいか、山根くん。人間というのは、追い詰められてこそ本領を発揮するんだ!」
「そんな本領、発揮しないでくださいよぉ……」
もはや覚悟を決めた古澤校長は、袖をまくり、ネクタイをキュッと締め直すと、大股で職員室を飛び出した。
行き先は講堂。マイクの前だ。
そして――
「おはようございますッ!」
古澤校長、全校生徒七百八名の前で、満面の笑みを浮かべていた。
「さて、皆さん。今朝、私は大変、焦っておりました。なぜかと言いますと……原稿を忘れたからですッ!」
講堂に軽いざわめきが走った。え、校長がいきなりそんなこと言っていいの?
「しかし私は、それを逆手に取って“あせあせ”をテーマに話そうと思いました!」
話が進むにつれ、生徒の背筋がピンと伸びていく。ここからが、校長の真骨頂だ。
「皆さんは、“焦る”ということをどう捉えていますか? 失敗の予感? 準備不足の証拠? 違います! “焦る”とは、“あなたが本気で大事にしている証”なのです!」
「へぇー……」と前列の生徒。
「たとえば、明日の試験を忘れてたとします。焦る。それは、あなたが“本当はできるようになりたかった”という気持ちを持っているからです。どうでもいいなら、焦らない」
「なるほどー」と女子生徒が小声でつぶやく。
「焦りは、ダメなことではない。むしろ、未来への原動力です! 今朝の私のようにね!」
いや、今朝のあなたは単なる凡ミスである。
だが校長の目は本気だった。マイク越しに自らの情熱を、あせあせと振りまいている。
「だから皆さん! 今日、何かで焦ったら、こう言ってやりましょう。“俺は、それだけ本気なんだ”と!」
拍手が起きた。教師たちも驚いていた。
朝礼後、校長は職員室に戻ってきて、どや顔で山根に親指を立てた。
「どうだ、なかなか良かっただろう? 焦ったことすら、教材に変えてしまったぞ。これぞ教育だ」
「すごいです……でも校長……」
「うむ?」
「今日って、体育館じゃなくて中庭で朝礼の日だったんですよ。校長、誰に向かってマイク使ってたんですか」
「…………」
ふたたび、校長の顔から血の気が引いていった。
そのまま椅子に崩れ落ちる古澤校長。
「お、俺は……誰に向かって……語っていたんだ……」
「マイクの先、工事中の足場でしたね……」
「朝から足場を鼓舞した男、校長・五十八歳……」
「でも、すごい演説でしたよ。たぶん、足場史上一番感動的なスピーチです」
「バカにしてるだろう……!」
その後、校長は念のために「講堂のマイクが生徒とつながっていた説」を確認しに行ったが、音響担当の生徒にしっかりこう言われた。
「校長先生、スイッチ入ってませんでしたよ?」
「…………」
またもや、職員室の隅で、彼は机に顔を埋めた。
しかし翌週、生徒会が掲示板にこう書いていた。
「今朝の焦りが、自分の熱意の証だったのかもしれないと思えました」
「校長先生の“あせあせ理論”、ちゃんと伝わってきてましたよ(音量ゼロでも)」
――あせあせ。それは、失敗の始まりではない。なぜなら、焦っても、笑い飛ばせばそれでいいのだ。
ただし、スイッチは入れておこう。
いいなと思ったら応援しよう!
楽しんでいただけることが一番の喜びです。いつもご覧いただき、ありがとうございます!これからも、皆さんと一緒に素敵な時間を共有できるように、より一層努力していきます。