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走る男と、追いつかない世界

「……あいつ、また走ってる」

 朝7時、駅前ロータリーに現れるひとりの男。

 スーツにネクタイ、ビジネスバッグをがっちりホールドしたまま、全力疾走。
 顔は本気。足も本気。だが目的地は……わからない。

「駅には行かないの?」

「いや、通り過ぎた。さっき」

「あ、戻ってきた。今度は反対側から……いやまた過ぎた。どこ行く気?」

 近所で「早朝の走る人」として知られるその男──名前も年齢も不明、ただ「走ってる」ことだけが確か。

 地元小学生のあいだでは「駅前のぐるぐるマン」、一部主婦層からは「毎朝ドラマかよ」とささやかれる謎の存在。

 だがある日、私はついにその“走る男”と話す機会を得た。

 なぜなら──

「すいませんっ、そこの人っ! あと15秒くださいっ!」

 いきなり話しかけられた。

「え、えっ?」

「あなたが今、僕に声をかけたことで、奇跡的に人生が変わる予定なんですっ!」

「ええええええ!?」

 彼の名は野見山啓介。35歳。独身。職業:自営業(?)。

 彼は言った。

「僕、いま、“未来の自分に追いつくトレーニング”してるんです」

 わけがわからない。

「朝の6時59分に“理想の自分”が駅に向かって走り出すイメージなんです。だから僕は、その幻影を追いかけてる。毎日、ほんのちょっとずつ、近づいてるんですよ……!」

 ──いよいよ意味がわからない。

 だが彼は真剣だった。

「昨日の自分に負けたくなくて。じゃあどうすればいいかって言ったら、“走る”しかなかったんです」

 精神論とフィジカルの融合。
 それが野見山流、通称“自己追跡型成長法”。

 ちなみにこの方法、誰にもオススメはしてないらしい。自分専用のやり方だという。

「じゃあ、いつゴールなんですか?」

「来月の誕生日です。36歳の自分に追いつく予定なんです」

「その“未来の自分”、どうやって測るんですか?」

「直感です」

 ──直感。なるほど、迷子確定である。

 数日後、駅前ロータリーには人が増えていた。

「走ってる! あ、今日ちょっと早くない?」

「ほら、いつもの角でターンくるよ」

「やっぱスーツなのいいよね、情熱系社会人って感じ」

 ついに「走る男」はローカルアイドル化していた。

 小学生は沿道で応援、主婦はスマホで撮影、駅前カフェは「走る人ブレンド(HOT)」を販売。
 町がざわついていた。

 そして誕生日当日──

「ゴールします!」

 野見山は叫びながら駅前を駆け抜けた。
 沿道には20人ほどの応援団。誰もが固唾を飲んで見守る中──

「おおおおおおお……! いた……見えた……俺がいた!!」

「マジで!?」

「おめでとう! 自分に追いついたのね!」

「ええっ……ついにゴール!? 終わっちゃうの!?」

 感動の空気の中、野見山は地面に膝をつき、ゼーハー言いながらこう言った。

「……でも……逃げられました」

「逃げたの!? 未来の自分が!?」

「めっちゃ早かった……あれ多分、38歳の自分です」

「えええええええええ!!!」

 町は爆笑に包まれた。

「追いついたら、走る理由がなくなるかと思ってたんです。でも違ったんです。やっぱり人間、次の理想が見えたら、また走るしかないんですよ」

 彼は立ち上がり、顔を上げて言った。

「さあ、明日からは“39歳の俺”を追いかけます!」

「どんどん遠くなるやん!」

 全員が総ツッコミした。

 だがその瞬間、私は思った。

 ──この人、たぶん一生走り続けるんだ。

 自分の理想に、毎朝ほんの少しずつ追いついては、また離れて。
 道がある限り、角がある限り、走り続けるのだろう。

 そして今日も彼は、駅前を駆けていく。

 誰も目的地は知らない。

 でも誰も、止めようとはしない。

 未来に向かって走る男。それだけで、なぜか応援したくなるから。

【追記】
 駅前のカフェでは今、「追いつけないパンケーキ(毎朝少しだけ配合が変わる)」が人気らしい。


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