第44巻 いわき市:イワキノカミの願い
いわきの朝は、海の匂いとともに目覚める。湯本温泉の湯けむりが、港風に混じってやってくるこの町は、どこか“ゆるさ”が空気に染みていた。温泉と海、二つの癒しが共存する土地――それがいわき。
そんな町の高台、使われなくなった足湯の屋根裏に、ひっそりと住んでいるのがイワキノカミだった。
神様というより、大きなぬいぐるみのような存在。仕事着の代わりにいつも薄手の浴衣をまとい、口癖は「まあ、ゆっくりいこうやあ」。願いに反応するとリラックス効果を添えて叶えてしまうが、その“ゆるみ方”が過剰で、問題を「まあいっか」で片づけてしまう人が続出するという欠点もある。
この日も、神様は足湯のぬるい残り湯に足を浸しながら、ぼーっと海の方を眺めていた。
「潮風、ええなぁ……なんか、働く気がせんなぁ……。あ、願いの気配……きたかも……」
その“のんびりレーダー”に引っかかったのは、温泉街で小さな観光案内所に勤める青年、琉翔だった。
琉翔は町のムードメーカー的存在で、誰とでも明るく話せる人気者だが、最近ちょっと“頑張りすぎている”のが悩みだった。
「なんかさ……俺、みんなに元気与えてるつもりだけど、自分はどんどん減ってる気がすんだよな……」
その呟きは、海風とともに神様の耳に届いた。
「うむ……これは“ととのえ案件”やな……リラックス処方、発動じゃあ」
そう言って、神様は竹筒に残っていた足湯の湯をちょんと指先に乗せ、ふっと海に向かって吹きかけた。
その瞬間、町の空気が――なんだか「ふわっ」とした。
まず、観光案内所の電話が半日まったく鳴らなくなった。
商店街の魚屋が「今日は干物じゃなくて、お昼寝します」と張り紙を出して店を閉めた。
更に、町の案内マップに「特に見るところはないけど、まあ、気持ちいいよ」と書き足され、妙に評判になった。
琉翔は、最初こそ「え、なんか妙に静か……?」と戸惑ったが、次第にその“ゆる空気”に包まれて、何もかもがどうでもよくなってきた。
「……いや、これ、すごいな……心がとろけていく……」
その様子を、背後から冷たい目で見ていたのが愛実。彼女は協調性がなく、周囲に流されないことを信条としている。
「……この町、最近、ゆるすぎじゃない?誰かが“ゆるボタン”押してない?」
「え?あー……俺……押したかも……心で……」
「は?なにそれ?」
そこへ、パタパタと書類を持ってきたのが晟代。この町の温泉施設の統計管理を担当する、いわきが誇る“数字の女”。
「観光客の歩行速度、昨日比で32%低下。全員の動作がワンテンポ遅いです。原因は?」
琉翔はタオルを首にかけたまま、ぽりぽりと頭を掻いた。
「たぶん、神様……?」
「お祓い案件では?」
「ちがう、癒し系だって」
翌朝。いわき湯本駅前には、明らかに営業開始の気配がない店が並んでいた。
「お湯がぬるかったので、お店もぬるく始めます」
「起きるタイミングを失いました。今日は午後から開けます」
「予定してたけど、なんか別にいいかなって思いました」
そんな貼り紙が次々に貼られ、通勤途中のサラリーマンが立ち止まって唖然とする。
「……町全体、まさかの“やる気自粛”モード?」
いわき全体が、“湯けむりに巻かれた意識レベル”になっていた。
一方、観光案内所では、晟代が真剣な顔でPC画面を眺めながら語っていた。
「データ的に言うと、昨日から観光案内の質問内容が“おすすめのリラックスポイント”一択になってます。あと、やたらと“座れる場所”を尋ねる率が増えてます」
「逆に観光っぽくなってきたんじゃない?」と琉翔はのんきに言ったが、横で愛実が腕を組んで唸った。
「違う。観光って、もっとメリハリがあるものよ。“行って疲れるけど楽しかった”っていうのが王道なの。今のこれは、ダラけた町」
「そんな言い方しなくても……」
「町がクッションになってどうするのよ」
そのとき、突然外から叫び声が聞こえた。
「すみませーん!足湯がぬるすぎて眠くて帰れません!」
「足湯で寝落ちしそうになって、15人が時間ロス中です!」
「観光中にうたた寝って、どういう……町の罠……?」
町中で小さな困惑が広がる中、当の神様はというと――
湯けむりの中、笹団子を片手に「うん、ええ感じに町がふわっとしてきたなあ……」と、笑顔で満足していた。
そのとき、愛実が神社の裏まで乗り込んできた。
「アンタ、イワキノカミよね? この町、ゆるみすぎよ。もうちょっと空気締めて!」
「え〜……締めるの、けっこう疲れるで〜……それに今、湯がええ感じやし……」
「じゃあ、あんたが代わりに寝落ちした観光客、全員起こして歩きなさいよ!」
「無茶言うなぁ……」
神様はあくまでのんびり構えていたが、その背後から、そっと一人、琉翔が現れた。
「神様、ちょっとだけ、効きすぎてるかも。たしかに、俺も元気になったけど……それって“何もしないでいること”とは、違う気がする」
その言葉に、神様は竹筒の水をすくって空を仰いだ。
「……そうかぁ。ちょっとだけ、のぼせすぎたかもなぁ」
神様はふうっと息を吹きかけると、町の空気が少しずつひんやりと引き締まっていった。
町中の足湯には「湯温少し高めに調整中」という張り紙が増え、マップには「元気回復ストレッチスポット」が追加され、各店に「30分ごとに深呼吸推奨」と書かれた謎のメモが配られた。
翌日、町にはほどよい“シャキッと感”が戻ってきていた。
愛実は深くうなずき、「これよ、こういう“回復後の動ける空気”がベスト」と満足気。
琉翔は少しだけ疲れが抜けた笑顔で言った。
「俺が元気もらったみたいに、今度は誰かに返していけたらいいな」
神様は、屋根の上で欠伸をかみ殺しながらつぶやいた。
「湯も、人も……ちょっと温めて、ちょっと冷ますのがちょうどええんやなあ……」
いわきの海に、今日もふわっと温泉の湯気が流れ、町はまた穏やかに動き始めていた。
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