『高速上ボタン、押したら最後』
「……なぁ、これ絶対押すなよ? 高速上ボタンって書いてあるけど、絶対何かヤバいから」
昼下がりのオフィスビル、旧型エレベーターの前。営業部の中堅社員・西園は、指をぷるぷる震わせながら、エレベーターパネルの“謎のボタン”を見つめていた。
パネルの右下、異様に自己主張の強い、光沢オレンジの四角いボタン。書かれた文字は――
「高速↑」
誰が貼ったのか、手書きの注意書きも添えてある。
《※押すと上昇します。責任は取れません。》
「どこに!?」
思わずツッコんだのは、新人の相良くん。入社2ヶ月目、まじめだけど好奇心だけは社内最速。
「ねぇ先輩、押しちゃダメですか?」
「ダメに決まってるだろ! 何が“高速↑”だよ、怖すぎるわ!」
「でも“上”ですよ? 下じゃないだけ、なんか安全そうじゃないですか?」
「全然根拠になってねえ!!」
* * *
このビルのエレベーターは、築40年。なのに、なぜか最新のICカードシステムと謎ボタンだけが導入されている。
管理会社曰く、「前任の保守担当が取りつけたまま、連絡がつかなくなった」とのこと。
そして数年前から、社内ではこのボタンを「押したら転職することになるボタン」として忌避する風習がある。
「実際、押したヤツ、今どうしてんすかね?」
「たしか……押した翌週に“異動”とか“結婚”とか“起業”とか、人生の“階”が変わるんだよ……」
「縁起いいじゃないですか!」
「……その全員、音信不通なんだよ」
「怖ッ!?」
* * *
だがそのとき――
ピンポーン
目の前のエレベーターが開いた。
中は、がらんとしている。が、天井の表示パネルに見慣れない表示が点灯していた。
《対応モード:高速上昇》
「出たーーーー!! 待って! 対応って何!?」
その瞬間、新人・相良くんが、無言で高速↑ボタンを押した。
「バカ何してんだおま――」
ギュイィィィィィィンッッ!!!!
エレベーターが、死ぬほど速く上昇した。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?」
「これが……高速モード!?」
「耳キーンってなる!! 鼻毛が空中に浮いてるッ!!!」
表示パネルは、すでに16階を通過。ビルは12階建てなのに。
「待って!? フロア超えてる!!」
「外界の概念、超えてます!」
「上ってどこまで!?」
そして――
ピンポーン。
ドアが開いた。
そこは、雲の上だった。
いや正確には、雲の上にぽつんとある「謎の受付デスク」があった。スーツ姿の受付嬢が一人、笑顔で言った。
「ようこそ、“人生上昇ステーション”へ」
「怖ッッッ!?」
* * *
説明によると、このボタンは“現状を打破したい者のみが押すことを許された、試験ボタン”らしい。
「押した方は、自動的に“変化のある未来”へとシフトされます」
「それ、意識してたら押せないですよ!」
「たいていの人は、“ちょっとした興味”で押すんです。そして帰ってこない」
「帰ってこれないのかい!」
その時、奥の壁に並んだパネルが点灯した。
【転職】【結婚】【渡米】【劇団旗揚げ】【自宅でパン屋】【名前を“凛”に改名】
西園の目が泳ぐ。
「これ……すべて、“押した人の結果”……?」
「はい。そしてあなたにも、選択の余地があります」
「え、急に人生の岐路!!」
相良くんが手を挙げた。
「すいません、俺、“劇団旗揚げ”でお願いします」
「早っ!」
* * *
5分後、元西園の目の前に開いたのは――
自分のデスクだった。
「え……?」
戻ってきたのだ。なぜか高速で。
隣のデスクには、見知らぬ新人が座っていた。
「はじめまして、西園先輩っすよね? 相良さんの後任っす!」
「……え、相良は?」
「聞いてないんですか? 辞めましたよ。昨日。『舞台に呼ばれた気がする』って」
(本当に……劇団、旗揚げたのか……)
気づけば、自分の名刺の肩書きが「営業部」から「企画戦略室」に変わっていた。
「え? 俺、異動してる……?」
「先輩、さっき部長が『高速ボタン、効いたな〜』ってニヤついてましたよ」
「部長押したのおおおおおお!?」
* * *
その日から、エレベーターの「高速↑」ボタンは目玉制度になった。
「今日から君、押していいよ」
「やだやだやだやだ!」
「じゃあ、停職」
「押しまーす!!!」
そして次々と、社内に“人生のジャンプ台”が現れた。
誰もが一歩、ちょっとだけ、上に昇る。
――ただし、戻ってこれるかは、押してからのお楽しみ。
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