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第7話「浮かぶ風呂、沈まぬ心」

「今日のお風呂、ペンギン風船が出る日だよー」
 そう叫びながら風呂場に駆けていったのは、小柄な寮生の佐々木だった。
 週に一度の“お楽しみ風呂デー”。寮母の田辺がサービス精神で、ビニール製の動物風船を湯船に浮かべるのだ。
「やった! ペンギン浮いてる!」
「ゾウさんもいるぞ!」
 だが、その浮かぶペンギンたちの間に、真顔で入り込んでいく人物がいた。
 もちろん、アルキメデスである。
 湯の温度にふむふむと頷き、手のひらでそっとペンギンの浮き輪を押しながら観察する。
「軽い……しかも……沈まぬ……。どうしてだ……この素材、石ではない……羽毛でもない……何なのだ?」
 その様子を見ていた他の寮生は、そっと距離を取る。
「なあ、あの人また始まってる……」
「浮力のやつ?」
「うん、浮力のやつ」
 —
 その後ろでは、アルキメデスが小声でブツブツ呟いている。
「湯の密度と、この物体の体積……加えて材質……空気を含んでいる……いや、これは……中空構造……」
「うわ、ペンギンの構造に本気……」
 —
 寮母の田辺が覗きに来たとき、彼はすでに浮かべる順序の実験を始めていた。
「わたしは今、最も小さいペンギンから湯面に置いていく。重心と接水面積、素材の硬さ、さらには浴槽の深さによって……」
「それ、子どもが遊ぶやつなんですけど……!」
 —
 その後、風呂から出たアルキメデスは、妙にキラキラした目をしていた。
「今宵、わしは“軽さ”とは何かについて、深く考えさせられた……。あのペンギンは、わしに語りかけていた。『形とは空気を包む器である』と」
「いや、たぶん何も喋ってなかったと思うよ」
 —
 風呂上がり、湯冷まし用にと出されたスポーツドリンクを飲んだアルキメデスは、突然、瓶の形を見て言った。
「このくびれ! この角度! これは……持ちやすさと、液体の流動性を両立させる究極の構造ではないか……!」
「また始まった……今度はボトルか……」

 湯けむりの中、アルキメデスは“静かな奇跡”を見た。
 それは——一人の寮生が、湯船に浸かりながら文庫本を読んでいた光景。
「……ぬ?」
 驚きと共に声が漏れる。
 肩まで沈み、身体の重さを湯に預け、最小限の動きでページをめくる少年。
 湯に沈まず、文字に没頭し、涼しい顔で「今日もまあまあ疲れた」とつぶやく。
 アルキメデスは、そっと彼に近づいた。
「そなた……なぜ沈まぬ?」
「え、何がですか?」
「身体が湯の中にあるというのに……完全には沈まぬ。しかも、腕をあげて紙を持ち、なお静止しておる。これは……理の体現ではないか……」
「えーと……ふつうに浮いてるだけ……っていうか、のぼせるんでちょっと出ますね」
「待て、もう少し教えてくれ。“湯の中で安定する姿勢”について、わしは今、重大な関心を抱いておる!」
「すみません、それ答えられる気がしないっす!」
 湯から上がりタオルを巻きながら逃げていった生徒を見つめ、アルキメデスは深く頷いた。
「今のは……我が問いを超越した存在だったな。あれはまさに“浮かびながら沈む者”。まさに哲学的矛盾の具現化だ……」
 —
 その数分後。
 今度は、別の生徒がスマホをビニール袋に包んで、湯船に持ち込んできた。
「さすがに水没はこわいから、防水袋で……っと、あれ? 動画止まった……」
「な、なにをしておる!?」
 またも湯船の中で立ち上がるアルキメデス。
「その小箱はなんだ!? 光っておるぞ!? しかも映像が動く……まさか、水の中でも機能するとは……それはすでに“生命ある石板”ではないか!!」
「ただのスマホ! 防水ケースに入れただけ!!」
「すまふぉ……? すまふぉとは……文字も映像も音も出す……そして水も恐れぬ……これは……まさしく神の書板……!!」
「だーもう濡れるから距離取って!!」
 —
 風呂上がり。
 バスタオルにくるまれながら、アルキメデスはふと窓を見上げた。
 湯気の先に、うっすらと星が見えた。
「浮かぶもの。沈むもの。そして、そこに意味を見出す者。……この時代は、すべてを包み込んでおるな」
 —
 松井がその夜、寮母と話していた。
「最近のアルキメデスさん、なんかもう……生き生きしてて。給食と風呂であそこまで感動できる人、他にいないですよ」
「でも、あの目つきで“なぜこの湯桶には“ケロリン”と書いてあるのか”って詰められたときは、ちょっと泣きそうだったわ……」
「やっぱり……お風呂って深いんですね……」
 —
 その晩、アルキメデスは自室でこう書き記した。
《本日確認した理の現象》
 ・空気を含む構造体は湯に浮く
 ・人間の身体は一定の姿勢で安定する
 ・“スマホ”は、動く石板でありながら水を恐れる
 ・“ゼリー”と“湯”は、物理的に遠いが本質的に似ている
 ・“ケロリン”の意味は、いまだ不明
 彼はペンを置き、満足そうに頷いた。
「風呂は……理と心を浮かび上がらせる場である……」
(第7話 完)


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