第16章:富山県「立山信仰と黒部の深淵」
佐渡から本土へ戻ったアオイは、新潟を経由して富山へと入った。
春先の立山連峰は、まだ白く冠雪していた。黒部アルペンルートを登るケーブルカーの窓から見える景色は、まさに“神域”と呼ぶにふさわしい迫力を持っていた。
地が高まり、空が近づくにつれ、アオイの胸も自然と引き締まっていく。
祖父の手帳には、こう記されていた。
——「立山は、死と再生の山。杉の木片は、祈りの記憶」
そして、もう一行——
——「黒部に沈んだ声を聞け。水底に、彼らは今も語りかけている」
*
室堂駅を出たところで、ひとりの男がアオイに声をかけてきた。
「君が、アオイくんだな?」
年の頃は五十代、登山ガイド風の服装に、立山信仰の絵が入った古い手ぬぐいを首に巻いている。
「俺はタカシ。君のおじいさんには昔、立山で案内を頼まれたことがある。今でも覚えてるよ。“ここには、生きながらにして死を知る知恵がある”って言ってた」
アオイは思わず笑った。
「……祖父はいつも、詩人みたいなことばかり言ってました」
「でも、それがこの山には合ってるんだよ」
*
タカシの案内で、アオイは地獄谷と呼ばれる噴気地帯に立った。
白い硫黄煙が立ち込め、どこからか岩の裂け目から湧き上がる湯の音がする。
「この辺りは、昔から“地獄”と呼ばれていた。だけどそれは、怖いからじゃない。“自分の内側の罪や迷い”を、この山に映したからだ」
タカシはそう言って、近くの古い祠を指さした。
「君の探している“立山杉の木片”は、たぶんここにある」
アオイが近づくと、祠の脇の杉の根元に、手のひら大の木片が置かれていた。
触れた瞬間、虹色の欠片が淡く輝く。
木片から、かすかに香る杉の匂い。何百年も風雪に耐えてきた命の香りだった。
——ザァァァ……
風が一気に吹き抜けると、木片が震え始めた。
アオイは、強くそれを握りしめる。
「……何かが、始まる」
立山杉の木片と虹色の欠片が共鳴したとき、アオイの視界はまたしても“揺れ”た。
次の瞬間——彼は雪解け水が流れる谷間に立っていた。
目の前には、巨大なコンクリートの壁。黒部ダムだった。
だが、これは“今”の黒部ではなかった。
ヘルメットをかぶった作業員たちが、泥にまみれながら鉄材を運び、岩を削り、トンネルを掘っている。
声を荒げる者もいれば、黙々と作業に打ち込む者もいた。
中には、疲れ果てて壁にもたれる若者の姿もある。
そして、その片隅に、小さな祠が立っていた。
*
山伏姿の男が、風の中で静かに経を唱えていた。
——「ここに眠る者、皆に安らぎあれ。願わくば、この力が人の恵みとなるように」
その祈りが終わった瞬間、アオイの胸の中に鋭い痛みが走る。
ダム建設の陰で亡くなった人々の“声”が、木片を通して流れ込んできたのだ。
——「俺の死が、無駄にならないなら、それでいい」
——「誰かの明日が拓けるなら、ここで終わってもいい」
その想いは、悲しみではなく、未来への静かな願いだった。
*
アオイはゆっくりと目を開けた。
立山杉の木片が、祠の中で穏やかに光っている。
タカシがそっと言った。
「黒部の工事で亡くなった人たちのために、今もここに祈る人がいる。山は、全部を見てる。生と死、恵みと犠牲……全部を受け入れて、黙って“在る”」
アオイは、手帳にペンを走らせた。
——「富山:立山信仰と黒部の深淵」
風が、再び吹いた。だがそれは、冷たさではなく、どこかやさしいぬくもりを含んでいた。
*
立山を下りる途中、タカシがふと足を止めた。
「君の祖父がこんなことを言ってた。“人は、死を恐れるが、山はそれを“巡り”として受け入れている”って」
アオイは、黙って頷いた。
「……この旅の終わりには、俺もそう思えるようになるかもしれない」
次のページを開くと、次なる目的地が現れた。
——「加賀に、雅と戒めを宿す器あり」
「石川県か……九谷焼の破片、探しに行こう」
歩みは、少しずつ深みへ向かっていた。
(第16章:富山県「立山信仰と黒部の深淵」完)
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