第6話 綾瀬駅の駅神様
朝の綾瀬駅は、まだ太陽が本気を出す前からせわしない。ホームの端で電光掲示板がぱちぱち瞬き、千代田線と常磐線の色が交互に流れていく。乗り換えの人、ここを始発に腰を下ろす人、そして「北綾瀬はこっち?」と首をかしげる人たち。人波は一定のリズムを刻みながら、時おり予想外にうねる。
その天井の梁に、綾瀬駅の駅神様は腰かけていた。薄い作業着の上に、どこかで拾った安全ベストを羽織り、首からは小さな六角レンチがぶら下がっている。見た目は現場の人だが、仕事はいたって「ほんの少しだけ、人の流れを整えること」だ。
「よし、今日もぼちぼち始めようかね」
駅神様が掌をふっと仰ぐと、改札の列がひと息に進んだ。たまたま前の人が交通系ICを取り出しやすい向きに持ち替え、さらにその前の人が一歩先で止まってくれた。それだけの偶然の積み重ねで、列の滞りはすっと解ける。神様の仕事は、大抵それくらいの“微調整”だ。
常磐線各駅停車から千代田線に流れ込む時間帯、ホームの端で中学生が走ってきた。肩からずり落ちかけたリコーダーのケースがばたばた踊っている。発車ベルまで、あと十秒。
「はい、深呼吸。息を吸って、吐いて」
神様が小さく手を回すと、少年の靴ひもがするりと足に馴染み、つんのめる代わりにふっと体が前へ出た。彼は間一髪で扉の前に立ち、車内の人が自然に一歩下がってくれる。少年は「ありがとうございます!」と小声で礼を言い、扉が閉まる。神様は胸を撫でおろし、レンチを指先でくるりと回した。
その頃、別のホームではスーツ姿の女性がスマホの乗換案内を凝視していた。北綾瀬方面に行きたいらしいが、枝分かれの図を見て眉が八の字になる。「北千住で降りる? 綾瀬で乗り換え? え、ここで?」――神様にも覚えがある難問だ。
「ほいっと」
神様が指を弾くと、彼女の視界の端で、北綾瀬行きの小さな三両編成がちょうど入線する。車掌の声が少しだけクリアに響き、「北綾瀬行き」。彼女ははっと顔を上げて小走りになり、扉が開いたところへすっと吸い込まれていった。
「短いけど頼れる子だからねぇ。のんびりいってらっしゃい」
昼前、ベビーカーを押す父親がエレベーターを探して、ぐるりと改札前を回っていた。急いでいるわけではないが、赤ちゃんが眠たいときの空気は焦げやすい。神様はベストの裾をつまみ、そよ風をひと筋落とす。すると、遠くの柱の案内板が反射して、エレベーターの絵柄だけがふっと明るく見えた。父親は気づいたように歩き出し、赤ちゃんは小さな欠伸をひとつ。神様は同じタイミングで欠伸をして、ふふ、と笑った。
午後になると、駅ナカは少し穏やかになる。窓側でぼんやり外を見ていると、遠くに車両基地の屋根が見える。神様はあの場所が好きだ。洗いたての車体が陽に反射して、まだ一度もお客さんを乗せていない空気をまとい、次の出番を静かに待っている。人の生活は慌ただしいが、電車の暮らしは思いのほか規則正しい。時計とダイヤに守られた、もうひとつの「日常」だ。
「ま、たまに乱れるけどね」
神様がつぶやいた瞬間、構内にアナウンスが響いた。信号点検の影響で、数分の遅れ。ホームの空気がざわつく。予定がある人の眉が寄り、のんびり屋さんの肩が落ち、子どもはむしろわくわくした顔になる。人の数だけ反応があって、数だけ世界が揺れる。
「こういうときは、焦らせないのがいちばん」
神様は安全ベストのポケットから、折りたたみ団扇を取り出した。ぱた、ぱた。目に見えない風がホームを撫で、並ぶ人の背中にそっと触れる。列の先頭に立つ大学生がリュックを胸の前に抱え直すと、その動きが波のように奥へ伝わって、全体の間隔が自然と広がる。遅れは消えない。けれど、イライラの粒がひとつ、またひとつと空気に溶けていく。
夕方、改札外の通りに焼きたてのコロッケの匂いが漂う。商店街へ流れる人波に、駅神様も思わずお腹が鳴った。神様のくせに空腹とは滑稽だが、神様だって香りには弱いのだ。……いや、ここは仕事中。気を取り直した神様は、団地から帰る買い物袋の重みに合わせて風を足してやり、歩幅が自然とそろうように人の流れを整えた。
日が落ちると、ホームの蛍光灯が頼りになる。帰宅ラッシュの波が押し寄せ、神様の仕事はもう一山来る。そこへ、きらきらしたスーツケースを引く二人組の旅行者が現れた。地図アプリを拡大したり縮小したり、方向が定まらずホームを往復する。神様は気を張る。質問が来るなら日本語、英語、身振り手振り、だいたい何でも通じる。が、今日はその前に、小さな奇跡をひとつ。
ホームの端で、近所の高校生らしき男の子がイヤホンを外した。ちらりと二人を見て、つつっと近づく。
「すみません、北千住ならこっちです。次で乗り換えるなら、向こう側の階段が楽っす」
旅行者の顔がぱっと明るくなる。神様は胸の奥が温かくなった。人は親切にされると、そのやさしさを次の誰かに渡したくなる。やがてそれは駅全体に回り、見えない風のように循環する。神様の団扇の風と、きっと同じ仕組みだ。
夜も更け、最後の始発準備が始まる頃、神様は梁からそっと降り立った。足音はしない。ホームを一周して、床のタイルにひびがないか、点字ブロックが少しずれていないか、気づく人のいないところを確かめて回る。たまに、ポケットから出したレンチで、心のネジをひとつ締め直す。――人の、ではない。自分のだ。焦る気持ち、空腹のこと、今日少しうまくいかなかった誘導の小骨みたいなひっかかり。それをきゅっと締めて、次の日に持ち越さない。
「今日も、よく流れました。明日も、どうか穏やかに」
ホームに入ってきた最終のブレーキ音が、夜をやさしく切り取る。扉が開いて閉じ、列車は暗い線路へ吸い込まれていった。神様は団扇をたたみ、ベストを直し、もう一度だけ人影の消えた駅を見渡す。さっきまでのざわめきが嘘みたいに静かだが、ここには確かな余韻がある。無数の足音が擦り付けていった一日の痕跡――それが、駅神様にとってのごちそうだ。
そして夜の綾瀬に、やわらかな風がひと筋。神様は小さく背伸びをして、梁の上へ帰っていった。明日の朝、最初の一本が光を連れてくるまで、少しだけ目を閉じる。
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