『人生に一時停止ボタンを』
「……で、これが“人生一時停止リモコン”です」
唐突にそう言いながら、謎の男が私のアパートのドア前に立っていた。ピンポンすら鳴らしてないのに、すでに私の生活圏に足を突っ込んでいる。セールスマンだろうか? それにしちゃリモコンが妙にしょぼい。見た目は昭和のビデオデッキのやつとそっくりだった。
「これで、嫌な瞬間とか面倒ごととか、全部“一時停止”できるんです」
「えっ、物理的に?」
「ええ。たとえば――」
男は突然、目の前の野良猫を指さしてポチッとボタンを押した。
その瞬間、猫は“ノリノリで道路を横断しようとする”という状況でピタッと止まった。完全に宙に浮いたまま、猫がカチコチに。体のバネどこいった。
「やば」
「この効果、15分続きます」
「短っ!」
「人生の“ちょっとだけ止めたい”時間に、ぜひ」
そう言って、男はリモコンをポケットにねじ込むように私の手に握らせた。契約書もなければ領収書もない。商売としてどうかと思うが、渡されたものは受け取ってしまった。
試しに自室で、テレビのワイドショーを見ながらボタンを押してみた。
司会者が「続いては芸能人の不倫報道ですが……」で停止。
……めっちゃありがたい。
以降、私はこの“15分人生一時停止ボタン”に依存してしまった。
会社に遅刻しそうな朝、上司に見つかるギリギリでポチ。
駅のエスカレーターを逆走しようとした酔っぱらいを見てポチ。
隣人の赤ちゃんが夜泣き開始する気配でポチ。
ついには、「冷蔵庫の中のプリンがあと1分で兄に見つかる」と思った瞬間にもポチ。
「これ、神具やろ」
人間は15分もあれば、プリンを食べ切れることが判明した。実験は成功である。
だが、事件はその日の午後に起こる。
会社で企画会議中、私は何気なく“ボタン”を押した。理由は「部長の話が眠すぎたから」である。誰もが身に覚えのある凡ミスだ。
そのときである。
天井が割れた。
いや、正確には“空間が裂けた”としか言えない。ピカッと光ったかと思えば、そこからスーツ姿の女が逆さまで降りてきた。
「ちょっと! 連打すんなって言ったでしょ!」
「え、誰?」
「一時停止局・調整課の渡辺です! あなた、午前中に“6回”も押しましたよね? 業務妨害なんですけど」
「業務って?」
「この世界を“時間管理”してる部門があるんですよ! あなたのせいで、猫とプリンと酔っぱらいがずっと空中にいる状態になってます!」
……なるほど。いろいろ納得した。
「でも、便利すぎるんですよ……このボタン……。面倒ごとも、ミスも、全部“止められる”って最高じゃないですか」
渡辺さんは腕を組んでため息をついた。
「そういう人、最近多いんですよ。“人生逃げ切りリモコン”みたいな扱いして」
「違うんですか?」
「違います。“向き合うための時間”をくれるのが一時停止。“スキップ”じゃない。わかって使ってください」
その瞬間、私は理解した。
……つまり、プリンの件はアウトだったらしい。
翌日から、“使用回数制限”がかけられた。1日1回。15分のみ。
だが、不思議とそのほうがありがたくなってきた。
朝、コーヒーをこぼしてシャツがびしょ濡れ。だけどポチッと一時停止し、鏡の前で考えた。
「俺、いつも急ぎすぎてんな……」
上司に怒られる直前、ポチ。
「今度こそ、素直に謝ろう。言い訳するのやめよう」
友人と口論しそうなとき、ポチ。
「これ、言わなくてよかったやつだな」
一時停止ボタンは、世界を止めるためじゃなかった。
“自分に間をくれる道具”だった。
人生に少しの“間”があるだけで、世界はちょっとだけ優しく見える。
なお、あの日以来、渡辺さんはときどき現れる。
「この前の“冷凍餃子を落とした瞬間の停止”、あれギリギリ許しますけど、ギリですからね!」
「ありがとうございます……!」
使いすぎ注意。だけど、きっと誰もが、人生に一時停止が必要なときはあるのだ。
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