小さいオレンジのひし形が見てる
その警告は、駅の階段下、右端の柱に貼られていた。
《この先、小さいオレンジのひし形にご注意ください》
……なんだそれは。
西新宿駅・7番出口前、通勤のピークを越えた午前10時すぎ、俺――土井貴則はそれを見つけて、スーツ姿で立ち止まった。
「え、小さい? オレンジ? ひし形? どういう注意?」
後ろから来た通勤中のOLが、俺の背中に軽くぶつかる。
「すいません、オレンジのひし形に引っかかりまして」
……誰もが知っている体で話すな!
*
会社に着いて、さっそく後輩の牧田に聞いた。
「あー、それ、あれっすよ。小ひし形」
「略すな。なにそれ本当に?」
「知らないんすか? 最近この辺に出るんすよ。小さいオレンジのひし形が」
「“出る”ってなんだ。何かのキャラか? 立方体の親戚か? ひし形って動くの?」
「たまに浮かんでます」
もう意味がわからない。疲れているのかもしれない。
が、その日の午後、俺は本当に“それ”を見てしまった。
*
営業先のビル、1階エレベーター前。
天井付近に、ふわっと……何か浮かんでいる。
小さい。
オレンジ。
ひし形。
「……お前が、そうなのか?」
するとそのひし形が、くるくる回りながら浮かび上がり、フワ〜っと消えていった。
なんだ、アニメの演出か? 無重力のひし形? 俺はいったいどんな幻覚を見ているんだ。
念のためその場にいたビル管理のおじさんに聞いた。
「ああ、小ひしだね。昼間は1階で浮いてるよ」
「やっぱり正式名称“こひし”なんですか!?」
「昨日は4階の自販機前にいたね。アイツ、甘い炭酸が好きなんだよ」
炭酸ってなに。ひし形に味覚あるの?
*
翌日、また出た。
昼休み、コンビニに行こうとしたら、オレンジのひし形が俺の前を通過していったのだ。
シュッ、くるっ、ピタッ、スイーッ。
通勤スーツにハンカチ突っ込んだ俺が、道路のど真ん中でひし形を追って走る絵面は、完全に不審者である。
「ひし形ーーーッ!!」
叫んだら近くの交番の警官に止められた。
「なにを追ってたんですか?」
「小さい……オレンジの……ひし形を……!」
「交番で一回落ち着きましょうか」
*
3日目、俺はとうとう職場で言い出した。
「小ひし、捕まえたいんです」
「なにを言い出すんですか」
総務の加納さんがコーヒー吹いた。
「たぶんあれ、人間の意識の“迷い”に反応するんですよ。たとえば、ラーメン屋で“味噌か塩か……”って迷ってる時とか」
「それただの自分の脳内現象ですよね?」
「そこに現れるの。ふわぁ〜っと」
「じゃあなんですか、あれは“決断を先延ばしにする者にだけ見えるひし形”ですか?」
加納さんが真顔になって言った。
「それ、めっちゃ本出せそう」
*
その日から、俺は意図的に迷い始めた。
「定食屋で……Aランチか……Bランチか……むむむむ……!」
ふわぁ。
出た! オレンジのひし形!
「うおぉぉおおおお!!」
テーブルのど真ん中で身を乗り出しすぎて、唐揚げを飛ばした。
「なに!? 唐揚げアタック!? ひし形への挑発!?」
店内がざわついた。
*
そして一週間後。
俺はひし形に話しかけるようになった。
「やあ、今日も迷ってるよ。コーヒー、ブラックかミルクか……さてさて?」
ピタッと止まるひし形。
「え? ミルク派? でも昨日はブラックのほうに寄ってたじゃん」
会社の誰かが、そっと俺のデスクに「お悩み相談窓口」のパンフを置いていった。
*
そしてついに。
――あのオレンジのひし形に、俺は触れてしまった。
夜のビルのエントランスで、俺の指先がその端に「ぺちっ」と触れた瞬間、世界がしゅんっと暗転。
気づけば、そこはひし形だけが無限に浮かぶ謎の空間。
「ここは……?」
「ようこそ、ひし形ゾーンへ」
ひし形がしゃべった。
「我々は“迷い”に集まる意思体。お前、最近“唐揚げ定食”か“生姜焼き”で毎回迷ってるな?」
「え、見てたんですか……?」
「そろそろ決断のときだ」
「じゃあ……からあげで」
「よろしい、さらばだ」
――そして、気がついたら、定食屋にいた。唐揚げ定食が目の前にあった。
*
あれからオレンジのひし形は、もう見えなくなった。
だが、迷うたびに、ふと思う。
――どこかで、あの小さなひし形が、くるくる浮いてるんじゃないかと。
たぶん今も、新宿のどこかで誰かの迷いを嗅ぎつけて、ふわぁ〜っと浮いてる。
ひし形は今日も、決断できない人間たちを見守っている。
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