第10章:群馬県「草津の湯治と上毛三山の神隠し」
春まだ浅い峠道を越えて、アオイは群馬県・草津温泉へと足を踏み入れた。
駅からバスに揺られ、山あいの町へと続く道を登る。窓の外には、噴き上がる湯けむり。白く揺らめくその煙の向こうに、湯畑の緑色の湯が見えてきた。
「……すごいな」
湯畑に近づくにつれ、硫黄の香りが鼻をつく。それなのに、不思議と不快ではなかった。むしろ、身体の奥から何かがほぐれていくような、不思議な感覚に包まれる。
祖父の手帳には、草津のページにこう記されていた。
——「草津の湯は、身体を癒し、心を洗う。湯もみ板の欠片は、迷いを沈める導きの触媒」
そして、もう一行、赤いインクでなぐり書きのように書かれていた。
——「神隠しに遭ったら、山の声を聞け」
*
草津の町は、小さな宿や土産物屋が軒を連ね、平日にも関わらず多くの観光客で賑わっていた。
だが、湯畑の源泉近くまで来ると、空気が変わる。熱気と湿気が混ざり合い、地の底から湧き上がる力が、まるで人の心にまで染み込んでくるようだった。
湯けむりの奥に、ひときわ大きな湯治旅館があった。
その玄関先で、若い女性が箒を片手に掃除をしていた。古風な紺の作務衣を着こなし、動作に一切の無駄がない。
アオイが声をかけると、彼女は振り向いた。
「……ご予約の方ですか?」
「いえ、あの……“アヤカ”さんを探してまして」
彼女は、少しだけ目を見開いたあと、微笑んだ。
「私がアヤカです」
それは、年若くして老舗旅館を切り盛りする女将——祖父の手帳に名が残っていた人物だった。
「もしかして……アオイさん?」
アヤカは少し驚いた顔で問い返した。
「おじい様から話は聞いていました。“あの子が、いつか来る気がする”って」
アオイは頷き、旅の目的と“虹色の欠片”の話をした。アヤカは黙ってそれを聞き、やがてそっと、旅館の裏手へと案内した。
「……草津の湯は、体を治すだけじゃない。“心の澱”も、少しずつ溶かしてくれるんです。昔から、そう言われてきました」
アヤカが立ち止まったのは、湯畑に隣接した小さな湯もみ場の跡地。
「ここに、“欠片”があります。おじい様と一緒に見つけたんです。“湯もみ板の欠片”——人が触れると、迷いが泡のように湧き上がる、不思議なもの」
アヤカは、小さな箱を差し出した。
中には、古びた木片。よく見ると、端に“湯”の字が彫られていた。
アオイがそれに触れた瞬間、「虹色の欠片」が共鳴し、空間がふわりと揺れた。
そして——不思議な声が耳に届いた。
——山に囚われしものよ。迷いし者に、道を。
アヤカが囁く。
「……それ、“山の声”です。最近、上毛三山で“神隠し”が続いていて……その声は、“戻りたい人の祈り”」
アヤカの案内で、アオイは上毛三山の一つ——榛名山の登山口へと足を踏み入れていた。
彼女の話によれば、ここ数年、山に入ったまま行方不明になる登山者が相次ぎ、それが単なる遭難ではなく「神隠し」だと噂されていた。
「不思議なんです。ただ消えるんじゃなくて、数日後にふもとで“何事もなかったように”見つかる人もいるんです。でも、皆……“あのとき、山に呼ばれた気がした”って口を揃えて言う」
アオイは、湯もみ板の欠片を手にしながら、心の奥で何かがざわつくのを感じていた。
それは“恐れ”ではなく、“懐かしさ”に似た何かだった。
*
山道を進むにつれ、アオイの意識は徐々に“現実”から引き剥がされていくような感覚に囚われた。
鳥の声が遠のき、足音が深く響く。
気づけば、あたりは霧に包まれていた。
そして——
その霧の中に、人影が立っていた。
白い衣をまとい、顔は見えない。だが、どこか懐かしい気配を持つ存在だった。
「あなたも、迷っているの?」
その声にアオイが頷いたとき、湯もみ板の欠片が光を放ち、霧がゆっくりと晴れていった。
すると、そこは現実とも幻想ともつかぬ“空間”——かつて神隠しに遭った者たちの“心の中”だった。
彼らは皆、現代社会に疲れ、生きる意味を見失い、“誰にも見えない場所”に行きたいと願っていた。
山は、それを“受け入れた”のだ。
だが——
「癒すことと、逃げることは違う」
その声は、確かに祖父のものだった。
アオイは振り返った。そこに誰もいなかった。だが、湯もみ板の欠片が震えていた。
アヤカが近づき、手をそっとアオイの肩に置く。
「私も、かつて“隠されかけた”一人なんです。でも、草津の湯が——“心の毒”を洗い流してくれた。だから今、ここで人を迎えている」
アオイの目から、知らず涙がこぼれていた。
「……俺も、多分ずっと、逃げてたんだと思います。自分から、誰かから。だけど、この旅で、ようやく見えはじめた気がする。“戻る場所”が」
霧が完全に晴れたとき、アオイとアヤカは、山の頂にほど近い平坦な岩場に立っていた。
雲間から差す光が、まるで祝福のように二人を照らしていた。
アオイの手の中で、「湯もみ板の欠片」と「虹色の欠片」が重なり合う。
その瞬間——欠片が共鳴し、まるで湯に溶けるように、アオイの意識が広がっていった。
視界の中に、かつてこの山に“隠された”人々の想いが流れ込む。
誰かに傷つけられた人。過労で倒れた人。人生に迷い、誰にも頼れなかった人。
——山は、それらすべての“重さ”を、静かに受け止めていた。
怒りでも、否定でもなく。ただ、浄化し、抱きしめるように。
そして、そこに草津の湯の記憶が重なる。
湯治場で流した涙。湯に溶けたため息。湯けむりの向こうで、生きる希望を少しずつ取り戻した人々。
欠片が語るのは、「癒す力」と「戻る勇気」だった。
*
山を下り、再び草津の湯畑に戻ったとき、アオイはすっかり表情を変えていた。
アヤカが笑って言う。
「少し、顔つきが変わりましたね。……山に選ばれました?」
「うん。というか、俺が……“自分を選び直した”のかもしれない」
アオイは、手帳のページに書き記した。
——「群馬:草津の湯治と上毛三山の神隠し」
アヤカがそっと差し出したのは、宿の湯けむりの中にある一枚の絵葉書。
それは祖父がかつて泊まった部屋の窓から描いた、朝焼けの湯畑だった。
「この旅館、閉めようと思ってたんです。観光化が進みすぎて、“本当の湯治場”の意味が薄れてきた気がして。でも……今日、あなたが来て、決めました」
アヤカは、手帳に自分の指でそっと触れる。
「続けます。温泉の湯が、癒すだけじゃなく“戻る場所”になるって、信じたいから」
アオイは、その言葉を胸に刻みながら、草津を後にした。
*
次の目的地は、埼玉・川越。
手帳には「時の鐘」と「龍神」の文字。そして、小さな欠片の絵。
アオイは、肩にかかる湯けむりの余韻を引きずりながら、確かな足取りで歩き出した。
(第10章:群馬県「草津の湯治と上毛三山の神隠し」完)
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