第3話「おまわりさん、浮力を説明してくれませんか?」
「ちょっと、困りますよ、先生! アルキメデスさんがまた……!」
放課後の職員室、理科教師・松井は顔をしかめながら、電話の向こうの声に耳を傾けた。
電話の主は、近所の派出所の警官である。
「あのね、今日は公園の噴水に飛び込もうとしたんですよ、彼! “水深を測定する必要がある”とか言って。近くの子どもに“我が身体をもってして”って叫んだんです」
「す、すみません……でもあの人、別に悪気は……」
「いや、それはわかってますけど、周囲のママさんが悲鳴あげたんですよ。水に入るだけならまだしも、“これは公共の水量測定実験である!”って……」
その言葉を聞いた松井の額に、ぐにゃりとした笑いが走った。
「まさか……また“浮力”の確認……?」
「ええ。たぶん、また浮力です。いったい何回、浮かせたら気が済むのか……」
警官も疲れた声で言う。ちなみに今回で浮力系のトラブルは6回目だ。
—
一方、本人であるアルキメデスはというと、派出所のベンチで小さく体育座りをしていた。
横には、派出所のぬいぐるみマスコット“わん太くん”が鎮座している。
「ふむ……このぬいぐるみは何だ……この“わん”とは犬のことか……それにしても、わしの実験を邪魔されるとはな……」
ぶつぶつと呟きながら、ふと横に貼られた“交通安全週間”のポスターに目をとめた。
「“反射ベストを着よう”……反射? 光が戻る……これもまた、物理の法則……」
無関係な話題ですらすぐに科学へと結びつけるこの男に、所内の若い警官はすっかりお手上げだ。
「……あの、なんか飲みます? また缶コーヒー?」
「む、あの“神の黒い水”か。喜んでいただこう」
「あはは……それ、ただのジョージアのブラック無糖ですよ」
「じょーじあ……新たなる地名か?」
「あ、それは……まあ……(説明面倒くさいやつだこれ)」
—
そこへ、息を切らして駆け込んできた松井。
「すみませんっ! うちのアルキメデスが……!」
「“うちの”って言うとなんかペットみたいに聞こえますけどね……」
警官は苦笑しながら、ペットボトル入りのお茶を渡した。
が、アルキメデスはなぜかそれを上下に振り始めた。
「この液体の挙動……なるほど、容器が変形せず、かつ泡立ちもせぬ……表面張力の力だな?」
「いや、それはただのお〜いお茶で……」
松井は額を押さえた。
「先生、一応言っておきますが、公園の噴水は“勝手に飛び込んじゃダメ”です。たとえそれが、どんなに高尚な理由でも」
「高尚……?」
「わたしは、ただ……この時代の水量と深度の関係を、自らの体をもって確認しようと——」
「ほら、それ! それがダメなの!」
アルキメデスの肩をつかんで揺らしながら、松井は叫んだ。
「今は“体当たり型実験”は禁止されてるの! あと子どもに“おぬし、計測の手伝いをしてくれ”って頼んだんだって? 完全に不審者だから!」
「そうか……この時代では、他人に“浮かんでみてくれ”と言うことが……禁忌とは……」
—
このあと、松井は派出所から彼を“釈放”してもらうために、書類を書き、警官に土下座に近いお辞儀をし、最終的には「うちで預かりますから!」と強引に連れ帰ることになる。
だが——
ここから、アルキメデスの“科学的暴走”は、さらに加速することになるのだった。
派出所を出たあとも、アルキメデスは道中ずっと“うつむき加減”だった。
松井の心配とは裏腹に、それは反省でも羞恥でもなく——
「なぜ、わたしの実験が……拒絶されたのか……?」
という根源的な疑問だった。
「測定する。確認する。それを以て理を導き出す。それが、学問の筋道であるはず……」
「いや、だからって噴水に飛び込むのは違うんだってば!」
松井はわざと大きな声で言う。住宅街を抜けて中学校の寮に戻るまで、すれ違う通行人たちが驚いた顔で彼らを見ていた。そりゃそうだ。ローブ姿の男と、スーツの女性の珍道中。どう見ても“取材”か“再現ドラマ”の撮影風景である。
「先生、もう一度言いますけど、公園で“おぬし、水中に沈んでくれぬか?”って小学生に言ったら、現代では通報されるんですよ。だいたい“浮力の実証”とか、マジで意味わかんないから」
「……ぬぅ」
アルキメデスは考え込んだ。
「この時代では……理の実証すら、許されぬのか……。ならば、どうすればよい……。ああ、わしが偉大なる学者であることを証明するには……!」
「もうしてるから! 教科書に載ってるから!」
「ふむ、それもそうか……」
松井は思った。
(何なんだろうこの人……自分で自分が有名なことを忘れがちなんだよな……)
—
その夜、寮の共用食堂にて。
夕食を終えたアルキメデスは、再び“疑問”に取り憑かれていた。
「そもそも、なぜ水は、浮くのだ?」
「……はい?」
「いや、わしは“浮力”という現象を定義したが、それはあくまで“定義”にすぎぬ。なぜその現象が生じるのか……その本質にはまだ届いておらぬのではないか……?」
「ちょ、待って。今さら“本質”を問い直すの? あなたが最初に定理作った人なのに!?」
「松井どの……わしは気づいてしまったのだ。教科書に記される名声に満足するようでは、進歩はない。現代の道具を以てすれば、もっと深く、水の中に潜ることができるかもしれぬ!」
「いや、それでまた池に入るのはやめてね!? 今度こそ保護者会になるよ!?」
「保護者会……?」
「いやもういい……」
—
だが、彼の執念はそこで終わらなかった。
翌朝、登校した松井は、理科準備室の窓際で何やらごそごそしている男を見つけた。
「あの……アルキメデスさん、何やってるの……?」
「ペットボトルと洗面器を借りておる。簡易の浮力測定装置を作っておるのだ」
「だから、なんでそんなに浮力が好きなの!? もうそれ、恋だよ、恋!」
「恋……?」
「知らないほうがいい! とにかく今日は、ちゃんと授業で喋ってね! 浮かぶとか沈むとかは控えてね!」
「承知した……が、浮かぶのは止められぬ。なぜなら——」
「やめとこ? それ、オチっぽいからやめとこ?」
—
だが、この日以降、彼の周囲には不思議な現象が増え始める。
体育のプール授業中、勝手に水に入って“実測”を試みようとしたり、
トイレのタンクを開けて「ここの水位変化もまた浮力の源泉……」と呟いたり、
さらには、食堂のカレー皿に浮かぶ福神漬けを見て「……これもまた理か」と感動したり——
生徒たちは思い始める。
「この先生、やばいけど……なんか、かっこいいかも……」
そして、徐々にアルキメデスの“浮力語り”は、校内でちょっとしたブームになっていくのだった。
(第3話 完)
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