全力で、左だけ向く男。
駅前ロータリーで起きた珍事が、私の人生を狂わせた。
「ねぇ、あの男……ずっと左向いてない?」
親友のユリが指差した先にいたのは、背筋を伸ばして立つスーツ姿の男だった。人通りの激しい朝の駅前、誰もがスマホを見たり急いだりするなか、男は一人だけ真剣な顔で、真横――つまり左だけをじっと見つめ続けていた。
気になって、昼休みにまた来てみた。まだ左を見ていた。
念のため夕方にも確認した。やっぱり左。
数日後、勇気を出して声をかけた。
「すみません、なぜ左を?」
「……それしかできないんです」
男の名は佐久間左之助(さのすけ)。由緒正しき左利き家系の長男として生まれ、子供の頃から「すべてを左に寄せろ」という家訓に育てられたらしい。
「目覚ましも左耳にだけ響くよう調整されていました」
「お箸も?」
「左にしか伸びない箸です」
そんなの、あるのか。
佐久間家は代々、“世界の重心を左に保つ”という使命のもと、「左性(させい)」のバランスを守ってきたという。右が過剰になると、世界がズレる。カレーのルーがルーだけになったり、回転寿司が止まったりする。
「嘘でしょう」
「いえ。昨日、回ってませんでした」
「それは多分、機械の故障では?」
だが彼は真剣だった。スマホも左手だけで操作し、バスに乗る時も左ドアしか使わない。極めつけは、「毎朝、鏡を見ながら自分の顔を“左八割”で判断している」とのこと。
「右顔面は信用してません。裏切るから」
この人、左に人生を懸けてる。
そんな左之助の生き方に、なぜか私は惹かれてしまった。いや、正確に言えば、左に惹かれた。気づけば私の部屋にも、左向きのぬいぐるみ、左折標識、左きき用急須……いつのまにか部屋ごと左向きになっていた。
ある日、左之助は語った。
「ついに“世界左化計画”の支部がこの町にもできました」
「いやな予感しかしない」
彼が連れて行ってくれたのは、元自動車教習所を改装した謎の施設だった。
「こちらが、左指導室。こっちが、左旋回訓練場。そして……ここが“逆時の間”です」
最後の部屋、なに。中に入ると、時計が全て左回りだった。気分が悪くなってきた。
「ここで10分過ごすと、あなたの思考も“左脳支配”から解き放たれるんですよ」
「いや、左脳は論理と計算じゃ……」
「右は敵です」
彼はついに、右耳用のイヤホンを切り捨て、靴の右足を“左足化”して履いていた。靴擦れがひどかった。愛は感じるが、方向性が危うい。
その日、左之助が重大発表をした。
「私は、来月“左党総選挙”に出馬します」
「左党って、何党?」
「正式には“左回り庶民連合”。通称“さりゅう”」
まさかの政界進出。公約は「すべての回転寿司を反時計回りに」「駅の改札を左進専用に」「右折禁止条例の導入」など、壮大というよりただの迷惑だ。
「支持率、1.4%です!」
「えっ、あるんだ……」
結局、選挙は全敗だった。得票数は「14票」。彼の親戚が13人いたらしい。
そして事件が起きたのはその数日後だった。
突然、佐久間左之助が“右”を見たのだ。
「左、なくなった……」
朝から雨だった。ロータリーの左側が工事中で立入禁止になっていたため、彼は見るものが何もなくなり、仕方なく右を見たのである。
そして、こうなった。
「右、案外……悪くない」
衝撃だった。
人類史において、進化とはこうして起きるのかもしれない。左右の対立を超えた、新たな均衡――“やや左寄りの中庸”が生まれた瞬間だった。
以降、彼は「斜め左」の方向を見つめて立つようになった。
そして今日も、駅前で誰かが言う。
「あの人……ずっと、ちょっとだけ左向いてない?」
私も、同じ方向を見る。
――世界は、少しだけ優しく傾いている。
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