サムズダウン禁止令
とある企業において、「サムズダウン」が大問題になった。
──きっかけは、営業部の田村がグループチャットで送ったたった一つの絵文字だった。
それは、親指を真下に向けた「👎」。
彼はただ、社食のうどんがぬるかったという事実を何気なく共有したかっただけだったのだ。
《今日のうどん、ぬるぬるだった件👎》
たったそれだけの投稿で、部長から人事部に呼び出されるとは、誰が予想できただろう。
「田村くん……これは“会社の福利厚生への否定的意見”と捉えられても仕方ない」
その言葉を受け、田村は青ざめた。
「いやいやいや!温度の問題であって、会社そのものには一切、否定的では!」
「でも“👎”は世界共通のNOサインだよね?パワーが強すぎるよ。表現として。あと、やっぱちょっと、攻撃力がある」
結果、会社では《全社的にサムズダウンの使用を控えるように》という謎の通達が回ることになる。
◆
こうしてはじまった「サムズダウン禁止令」。
しかし、社員たちは困惑した。何をどう否定すればいいのか、誰かに「それは違う」と言いたいとき、何をすればいいのか。なにせ、最も直感的な「NO」が奪われたのだ。
「じゃあさ、どうすれば不満を伝えられるわけ?」
会議室でため息をついたのは経理の佐藤。彼女はどちらかというと“はっきり言う派”の人間で、否定も肯定も平等に表現したい人だった。
「今は“ふわっと否定”が流行りなんですって。『それも一理ありますけど〜』って言ってからの沈黙で圧かけるとか」
「いや、それサムズダウンより悪質じゃない?」
社内にはさまざまな“サムズダウン代替案”が乱立し始めた。
・《手を振る絵文字》で「去りたい」気持ちを表す派
・《カエルの顔》で「うげぇ」という感情を示す派
・《ほうき》で「全部一掃したい」という怒りを込める過激派
しかし、どれも決定打にはならず、社員たちは表現迷子に陥っていった。
◆
そんな中、社内で密かに話題になりはじめたのが、総務部の新人・藤森だった。
彼女は「否定は“手のひら”から始まる」という持論のもと、手作りの“サムズダウン風ハンドサイン”を開発していた。
「ちょっとこれ見てください」
藤森は人差し指と中指を下に向けて曲げ、なんとも中途半端な“否定ポーズ”をとった。
「これ、“ゆるサムズダウン”って呼んでます」
「見たことない形だな」
「怒ってるわけじゃないんです。ただ、“その件、微妙ですね?”って、やんわり伝わると思いません?」
「いや、ムズいな」
「ちなみに二本指でやると“やや反対”です。三本指は“だいぶ反対”。親指使うのは禁止なので、日替わりで薬指と小指で否定してます」
「何その否定バリエーション」
社員たちは笑いながらも、藤森の“サムズダウン互換ジェスチャー”に興味を持ち始めた。
いつしか彼女は「否定モーションのパイオニア」として会議室での“リアクション担当”に任命されるほどになる。
「以上、以上になります」
「はい、“二本指下げ”いただきました〜」
藤森が静かに指を下げると、発言者がうっすら汗をかく。だが、「👎」ではないため、ギリセーフらしい。
◆
だが、事態は予想外の展開を見せた。
ある日、取引先とのオンライン会議に同席した藤森が、反射的に“三本指下げ”をしてしまったのだ。
「いや〜なるほど、それもご提案のひとつとして検討は……」
──ぴしっ。指、三本、下降。
画面越しの取引先担当者が一瞬絶句し、その場がしんとした。
「え……あの、いま、否定されました……?」
「いえ!これは“すごく納得してません”という意思表示で……あ、違った、納得してないのは事実ですけど……あれ?」
フォローが泥沼だった。
その結果、「社外対応における指サインの使用も禁止」という、さらに締めつけの強い通達が出た。
社員の表現方法は、ふたたびゼロへと戻されたのである。
◆
──しかし、希望はあった。
田村がまたやったのだ。
《うどん、今日はあったかかったです👆》
そう、「サムズアップ」だった。
誰もが思った。
あれ?これって……。
《会議、時間通りに終わりました👆》
《このスライド、わかりやすいです👆》
《BGM、昭和歌謡セレクト最高です👆》
社内が突如として「肯定の嵐」と化した。
その結果、妙な現象が起きる。
──誰も否定されないため、逆に困惑し始めたのだ。
「いや、この企画、本当にいいのかな?」
「だって誰も“👆”してくれないよ……?」
サムズアップが“肯定の物差し”になる世界では、「沈黙」はすなわち“最大の否定”になっていたのだ。
◆
そして今も、会社では続いている。
サムズダウンを禁じ、沈黙が「NO」になる世界。
否定のない空気の中、社員たちは今日もうっすらと怯えながら、「👆」されるかどうかに一喜一憂している。
──結局、いちばん攻撃力があるのは、無言だったのかもしれない。
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