第52巻 藤沢市:フジサワノカミの願い
江ノ島の入り口にある古びた神社の軒先で、今日もまた、ひとりの神様がだらしなく寝そべっていた。
フジサワノカミ――湘南の海と風に愛される神様であるはずなのだが、本人はその神々しさを1ミリも活かす気がない。
Tシャツにビーサン、サングラスをかけてスイカバーを片手に、「今日も晴れたから願いは午後からでいいや」と言いながらハンモックに揺られている。
「ねえ、神様。そろそろ起きてくれない?」
その声に眉をひそめるのは、心花。江ノ島の観光案内所でバイトをしている大学生だ。
先週、間違って“神様に願いを投函するポスト”に「単位ください」と書いたら、本当にレポートが提出されたという前代未聞の事件が起き、以来、彼女は“神様対応係”に任命された。
「単位、無事に来ただろ。B+って、なかなか味のある落としどころだと思うんだけど?」
「うん……そうなんだけど、教授が“これ俺が書いたんじゃない”って騒いでて、めっちゃ調査されてるの。文章のノリが軽すぎるって」
「えー。海の風って、軽いじゃん?」
「レポートに“だいたいそんな感じっす”って書く人、いないのよ」
フジサワノカミは肩をすくめ、スイカバーの種を空に向かって飛ばした。どこからどう見ても、ただの夏を満喫してる人である。
そのとき、観光客らしき親子が神社にやってきた。
「おかあさん、この神様……Tシャツに“風まかせ”って書いてあるよ」
「ちょっと斬新すぎるわね……お願い、してみる?」
母親が賽銭を入れて手を合わせた瞬間、神様がポケットからシャボン玉セットを取り出した。海風に乗って、大小さまざまなシャボン玉がふわふわと舞う。
「願い事……“日々のストレスを癒したい”って感じだったから。シャボン玉。なんか癒されない?」
「確かに綺麗だけど……神様って、もっとこう、ありがたい感じの……」
「このあたりは、だいたい“気分で叶える”がスタンダードなんで」
心花がぼそりと言うと、神様はにこにこしながら言った。
「“ちょっとだけ働く”がモットーなんだよ。やりすぎると疲れちゃうからね」
「そういうとこは妙に正直ですね……」
そのとき、遠くで「ビーチでバナナボートが暴走してる!」という悲鳴が聞こえた。
「お、出番かも!」
やけに楽しそうに立ち上がるフジサワノカミ。
どうやら願いに直接対応するより、ちょっとしたトラブルを“イベント”扱いする方が好きらしい。
神様は、波のような足取りでビーチへ向かう。途中、海の家で売られていた焼きそばを無言で一口もらい、店主に「風の導きだと思って」とだけ言い残す。
「泥棒だよね、それ……」
心花は軽くツッコミつつも、結局はあとを追いかける。
どうせまた、“バナナボートにしれっと乗って笑ってるだけ”というオチになるのだ。
でも、ふと気づく。
彼が現れると、どこか空気がゆるむのだ。神様らしくない、でも神様にしか出せない“ちょっとだけの安心感”。
その夜、心花は海風に吹かれながら小さく願った。
「明日も、ちゃんとゆるくて、どうでもよくて、ちょっとだけ楽しい一日になりますように」
もちろん、それを聞いていた神様は、ハンモックで返事の代わりにひとつ大きなあくびをした。
そして翌朝、江ノ島には虹色のシャボン玉が、またひとつ多く浮かんでいた。
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