第78巻:大津市 オオツノカミの願い
琵琶湖が朝の光をまとい、きらきらと揺れていた。
湖畔には散歩する地元の老夫婦、ジョギング中の若者、そして……縁側にちゃぶ台を構えてボソボソと味噌汁を啜る神様がいた。
「……静かじゃのう」
そう呟いたのは、大津市を見守る守り神・オオツノカミ。風情を何より大切にする、琵琶湖の水面のように穏やかで物静かな神様だ。神のクセに朝から湯豆腐を炊き、新聞を広げ、近所のスズメと将棋を指すのが日課である。
「ポン」と一手、金を打つと、スズメが「チュン……」と鳴いた。どうやら投了らしい。
「ふむ。三連勝じゃな」
そんなのどかな日常に、突如として乱入してきたのが、蒼人という名の青年だった。琵琶湖のほとりに住む大学生で、趣味は詩の投稿とカフェ巡り。問題は、毎朝神様のちゃぶ台にちゃっかり座り込み、言いたいことだけ言って学校へ行くことだった。
「神様! 聞いてくださいよ! 朝イチの電車、パン食べながら乗ったら向かいのOLさんに睨まれて! これって現代社会の優しさの欠如ですよね?」
オオツノカミは、一切動じない。湯呑みを片手に琵琶湖を見つめながら、静かに言った。
「……君、また願いに来たのじゃろ」
「え、分かります?」
「昨日も言うとった。“学食のカレーが中辛から激辛になるように”とか。ああいうのは、願いと呼ばん。愚痴じゃ」
「じゃ、今日はちゃんと願います!」
蒼人が堂々と手を挙げる。オオツノカミはその姿を見つめ、目尻を下げた。
神様としては、願いごとがあれば格式高く、かつ風情を込めて叶えてあげたい。
たとえば「恋が叶いますように」なら、朝靄に包まれた湖の水面に名前が浮かび上がるとか、鯉が橋の下で跳ねると同時にスマホに“好きです”の通知が来るとか、そういう演出重視のスタイルだ。
「では――願いを申してみよ」
蒼人は、いそいそとスマホを取り出し、メモ帳を開く。
「“バイトを辞めたい。でも理由が見つからないので、バイト先が自然消滅してほしい”です!」
オオツノカミの手が、プルプルと震えた。
神である彼の眉間に、皺が寄る。
「……それはもはや、願いではない。“神頼みを装った社会的逃走”じゃ」
「えー! でも辞めるって言ったら先輩に“根性なし”って言われそうだし……。自然に、風のように、そっと、消えてくれたらな〜って」
オオツノカミは、少し黙ってから静かに立ち上がり、ちゃぶ台の脇に置かれた笛を吹いた。
「ふぉぉぉお〜〜……」
何やら幻想的な音が琵琶湖に響き渡る。すると、どこからともなく水の精のような魚たちが湖面を跳ね、雲が割れ、光が差し込んできた。
蒼人は思わずうっとりと見とれた。
「え、これって、まさか本当に……?」
「うむ。バイト先の建物が、今から“自然と同化”するじゃろ」
「えええっ!!?」
オオツノカミは、ポツリと付け加えた。
「ただし、バイト先がたこ焼き屋ゆえ……消える前に“たこ焼きの香り”が3日ほど大津の街を包む。風情じゃ」
「……それ、店長がめっちゃ困るやつですよね!? ニオイだけ残るとか! 逆に客増えるやつですよね!?」
「じゃあ辞める理由ができたのう。“混みすぎたから辞めます”で通用するじゃろ」
「風情で捻りつぶしに来ないでください!」
蒼人は両手で顔を覆った。神様の“ちょっとだけ叶える”スタイルが、まさかここまで厄介だとは思わなかった。
***
蒼人は琵琶湖のほとりで呻いていた。
「たこ焼きの香りに包まれた街とか、バイト辞めるどころか“観光キャンペーンの象徴”になってるし……。
しかもテレビの取材来て、“香る風景都市・大津”とか言い出したし……」
オオツノカミは、平然と湯豆腐の鍋に昆布を足しながら言った。
「良いことじゃ。観光が活性化すれば、皆の心が潤う。願い、叶っておる」
「……いやもう、叶ってる風で誤魔化してません!?」
「いやいや、あれほど“自然消滅”にこだわっておったじゃろ? 建物がいつの間にか竹林に変わり、たこ焼き機だけが朽ちたベンチに乗っている風景など、見事な“消滅”じゃ」
「ポストアポカリプスみたいな願い叶えないでください!!」
そこへ、蒼人の友人、真由が登場した。彼女は探検隊の隊長のような恰好で、手にはタブレット端末、首からは風力計をぶら下げている。
「見た!? 琵琶湖の南風、たこ焼きの匂いで濃度100%だったわよ!
このままでは風評被害で“湖魚=タコ味”って言われるわ!」
「真由、お願いだからそれを世間に拡散しないで! 謝るから!」
オオツノカミは、小さく咳払いをした。
「ふむ……わしは、あくまで風情を持って願いを叶えただけじゃ。
ところで、君も何か“願い”はないのかの、真由殿?」
真由は、まっすぐ神様を見つめた。
そして、言った。
「……実は、あるのよ。“ひとりになりたい”。
サークルも、家族も、SNSも、ずっと誰かと繋がってるのが疲れちゃって。
でも、ちゃんと繋がっていたいとも思ってる。わがままなのは分かってる。けど――“少しだけ、誰にも見つからない自分の時間”がほしいの」
静寂があった。
オオツノカミは、しばし瞼を閉じたあと、そっと立ち上がり、再び笛を吹いた。
ふぉぉぉ〜〜……。
風が琵琶湖から吹いた。
すると、真由の足元にふわりと落ち葉が集まり、やがてそれは一脚のベンチに形を変えた。
「これは……?」
「“誰にも見つからない休憩所”じゃ。
昼間だけ湖の風に乗って現れる、幻のベンチ。
この上に座れば、一時間だけ“あらゆる通知が届かなくなる”。
ただし、風が止むと、ベンチも消える」
真由は、目を丸くしたあと、ぽつりと笑った。
「……最高じゃない、それ。ありがとう、神様」
「うむ。願いが風に乗る、それが大津流じゃ」
「それ、毎回言ってますよね……?」と蒼人がぼそっと呟いたが、オオツノカミはすでに湯豆腐を火から下ろしていた。
「では、今日の分の願いは済んだな。そろそろ昼寝の時間じゃ」
そう言って、オオツノカミはちゃぶ台を片付け、縁側でごろりと横になった。
そこには、琵琶湖の波音と、たこ焼きの香りと、そして――どこか優しい風が吹いていた。
真由はその風を浴びながら、小さく呟いた。
「願いって、派手に叶うより、ちょっとずれてた方が、なんかちょうどいいのかもね」
蒼人は、それを聞いてうんざりした顔をしながらも、ちょっとだけ笑った。
「そう思えたら、たこ焼き臭にも意味があるかもな……いや、ないかも」
そして、彼らの背後で、風に舞うチラシが一枚。
「“香る風景都市・大津”第1回フォトコンテスト開催! テーマ:目に見えない香り」
香ばしくも風情ある街、大津の午後は、今日も風に包まれていた。
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