第119章 上尾市:アゲオノカミの願い
上尾市の朝は、新聞よりも早い猫の鳴き声で始まる。高橋家の縁側に陣取った三毛猫が、玄関を開けてもらうために毎日5時15分に鳴く。それを聞いた近所の住人たちは「そろそろ朝ごはんだな」と米をとぐ。
そんな、のんびりした住宅地の一角にある小さな祠。そこに祀られているのが、郊外の守護神――アゲオノカミである。神とはいえ、全長30センチの木彫りの狸の姿で、願いは一応聞くが、「穏やかに」が基本方針。急かされると、逆に寝る。
この日、神の前に現れたのは、目元にクマを浮かべた若き会社員、剛。手にはコンビニのアイスコーヒー、肩には書類カバン、そして顔にはあきらかな疲労。
「神様、ちょっとだけでいいんです。朝、余裕を持って起きられるようにしてください」
アゲオノカミは目を細めて、ゆっくりと――そのまま眠った。
翌朝。
剛は、まさかの朝4時に目が覚めた。しかも自然に。鳥のさえずりと共に、まるで修行僧のような静かな目覚め。洗顔も、着替えも、朝ごはんも完璧。そして出勤時間の7時まで、あと2時間。
「……暇すぎる」
朝のテレビもやっていない。ネットニュースを見ようにも、更新されていない。洗濯機を回せば、隣の鈴木さんから「うるさかった」と言われる。結果、剛は6時にはベランダで無言の体操を始めた。
しかもこの早起き効果は“毎朝”続いた。
三日目には、近所の犬の散歩に勝手に同行し、五日目には、なぜか町内清掃をリードする係に任命される始末。
剛の願いは確かに叶った。しかし、「ちょっとだけ」の度合いがあいまいだったのがいけなかった。アゲオノカミにとって“ちょっとだけ”とは、「神様の世界でほんのすこし」であり、つまり人間の朝4時起きなど、誤差の範囲内だったのだ。
そして一週間後。ついに剛は祠に駆け込み、叫んだ。
「神様! 今度は“ちょっとだけ遅く”してください! 7時に起きたいんです!」
アゲオノカミはポリポリと耳をかいて、「ほい」と言ってから、またもや穏やかに寝た。
翌朝。剛は、ピクリとも動かない目覚ましを3つ見ながら、時計を二度見した。
「……11時半……だと……?」
会社には連絡済みである。というのも、アゲオノカミの“ちょっとだけ遅く”は、人間界の“時空を越えた昼寝”だった。しかも剛のスマホアラームが、なぜか「わらべ歌」に変わっていた。起こす気はゼロ。
さすがにこれはまずいと、剛はまたも祠へ。
「神様! じゃあ、6時45分起きで、しかも休日は8時、しかも起きた時にちょっと気分がいい感じで――」
「……むずかしいなあ、それは」
狸神は、ぽんぽんとお腹を叩いた。すると、近くの雑木林からおばあさんが現れた。
「あら、あんた剛くんね? 神様がうちの孫に願い叶えてやれって。6時45分起き? それなら“炊飯器のスイッチ”でいいんじゃない?」
おばあさんが言うには、朝炊ける米の香りは人間を自然と起こすという。実際、彼女の家の孫たちは、炊き込みご飯の香りで起床していた。
こうして剛は、目覚まし代わりに米を炊く生活を始めた。
炊き込みご飯→起床→朝ごはん→元気→会社で「最近顔色いいね」と褒められる→調子に乗る→ランチに炊き込みご飯を持参→「何その匂い…」と同僚が近づく→炊飯部が発足→朝、会社の炊飯室が設置→支社ごとにレシピ対決開始。
そして数ヶ月後、「上尾発・社内炊飯プロジェクト」は全国ネットに紹介されることとなる。
剛は最後に、もう一度だけ神様の祠を訪れた。
「神様。……すみません、“ちょっとだけ”って、どこまでが“ちょっと”なんですか?」
するとアゲオノカミは、今日もやっぱり、ぽんぽんとお腹を叩いた。
「人間の“ちょっと”って、だいたい“とんでもない始まり”じゃな」
祠の上に咲いた紫陽花が、風に揺れていた。
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