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8時男、定時に吠える

 8時になると、男は吠える。

 それも、犬のように「ワン!」とではない。もっとこう、会社の廊下に響き渡るような声で――

 「出社完了ッ!!」

 社員たちはもう驚かない。というより、慣れすぎてて誰も振り返らない。逆に、8時にその声が聞こえなかった日など、「あれ、村木さん体調悪いのかな?」と心配されるレベルだ。

 この男、村木譲 42歳。通称「定時の鬼」、もしくは「タイムカードの化身」。

 彼の人生の柱は三本ある。

 一、始業5分前には着席。
 二、朝礼は先読みで声出し。
 三、8時には絶対に“出社完了”を叫ぶ。

 ちなみに、弊社の始業は8時半である。

     *

 「おはようございます、村木さん」

 「おう!7時45分から“おはようモード”入ってるからな!」

 総務の新入社員・田所は、その都度リアクションに困る。なにせ、村木の机にはデジタル時計が五個ある。それも、全部1分ずれている。村木いわく、「誤差を制する者は、定時を制す」。

 彼が社内に残した伝説は数知れず。

 一度など、目覚まし時計8個が一斉に鳴らない“奇跡の朝”により、出社が8時を2分過ぎてしまった日があった。

 その日の彼の行動:

 ・出社後、机の上に「本日、私は定時に失敗しました」と書いた反省文を自発掲示。
 ・タイムカードに「8:02、敗北」と自筆記入(誰も求めてない)。
 ・給湯室のポットに貼り紙「お湯の沸騰も、定時ではないと意味がない」。

 すべてが意味不明だった。

     *

 だが、そんな村木に転機が訪れる。

 ある日、上層部が「フレックスタイム制導入」を発表したのだ。

 社内は歓喜の渦に包まれた。

 「10時出社OK!? 最高じゃん!」

 「8時なんて、まだ夢の中~」

 しかし、村木はただ一点を見つめていた。

 ――8時出社、消滅の危機。

 「まさか……俺の8時魂が……自由出社という概念に駆逐されるとは……!」

 その日から、村木は荒れた。
 出社は相変わらず8時。だが、吠えない。

 「……出社……完了……です……」

 周囲の社員も気づいた。

 「なんか村木さん、弱ってない?」

 「フレックスタイムのストレス?」

     *

 3日後の金曜日。

 田所が8時ちょうどに社に入ると、そこには異様な光景が広がっていた。

 廊下。床に赤絨毯。手作りのアーチ。「祝☆定時入場」。

 そして、そこを堂々と歩いてくる村木。胸に輝くのは、手書きの「タイムキング」のタスキ。

 「出社完了ぉぉぉおおお!!!」

 その声に、社員たちの手が自然と拍手になる。村木はそのまま社内一周し、最後にこう叫んだ。

 「私はっ……! たとえフレックスになろうとっ……! 8時に来る者たちの希望となることを誓いますッ!!」

 社内がどよめく。

 「こいつ……マジでフレックスと戦ってやがる……」

 その日から、8時出社者には“タイムキングスタンプ”がもらえるようになった(村木私案)。10個集めると「村木賞」が授与され、内容は「拍手1分+熱い握手」。

 誰も欲しがらないが、なぜか田所は3つ目を集めていた。

     *

 ある日、社長が言った。

 「なんか最近、8時前に人多くない? みんな自主的に来てるの?」

 総務課長が答える。

 「ええ、村木という男がですね……“早出に魂を燃やす”という文化を、なぜか独自に築いておりまして……」

 社長は一言だけ言った。

 「村木、営業に回そう」

 数日後、村木は8時ちょうどに新宿営業所で「出社完了ォォ!」と叫び、無事、警備員に通報された。


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