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『ベビーマークの男』

 電車で見かけた、ちょっと変な男の話をしよう。

 朝の通勤ラッシュ、ぎゅうぎゅうの車内。吊り革につかまっていた俺の前に、ふと一人の男が立った。年の頃は30代半ば、スーツにスニーカーという謎スタイル。
 彼の胸元に輝いていたのは、ピンク色の――ベビーマークだった。

 そう、あの“赤ちゃんがいます”バッジ。通常は妊婦さんが身につけるものだ。

 なのに、だ。彼は明らかに男性で、しかも妊娠してる様子は一切ない。むしろ腹筋割れてそうな感じだった。

 けれど彼は、そのバッジを誇らしげに、そして堂々と付けていた。

 ……なにそのスタイル?

 他の乗客もチラ見しては「え、え、え……」「あれ何……?」とザワついている。

 その時、俺の脳内にひとつの疑問が浮かんだ。

「もしや、これは新手の社会運動なのか?」

 妊婦バッジの男性版!?
 いや、育児への意識改革を叫ぶプロパガンダ!?
 まさかの“パパマーク”誕生か!?

 興味が抑えきれず、つい声をかけてしまった。

「あの、すみません……その、バッジって……?」

 男はニコリと笑って言った。

「ああ、これですか。これ、ぼくの“初心者マーク”です」

「初心者……?」

「そう、父親一年目。昨日、娘が初めて“パパ”って言ってくれたんです。だから今日から、この“ベビーマーク”が俺の名札です!」

 ……え?

 ……えぇーー!?

「いやいや、でもそれ“妊婦さん用”のじゃないですか?」

「知ってます。でも僕にとっても“命がけの初体験”が続いてましてね。夜泣き、ミルク、オムツ替え、あと寝不足と戦うフリースタイル格闘技」

「わかりにくい例え!」

「つまりこれ、“父の心の妊娠バッジ”なんです!」

「いや、ややこしすぎるだろ!」

 そのあと彼は饒舌に語った。

 ・深夜2時のうんち事件。
 ・沐浴中に鼻にお湯を入れてしまい娘にギャン泣きされる。
 ・育児アプリにログインしすぎてスマホが赤ちゃんだらけになる。
 ・自分のくしゃみで子どもがビビって以後距離を置かれている。

「これらすべて、“初心者マーク”対象ですよね?」

「……うん、まぁ、気持ちはわかります……」

「つまり、ぼくに席を譲ってほしいとかじゃないんです。ただ、言いたいんです。“がんばってる父ちゃん、ここにいるぞ!”って」

 まわりのOLが「……なんか、泣ける……」とつぶやく。

 別のサラリーマンが「俺もほしいな、それ……」と小声で言う。

 やがて降車駅に着いた彼は、会釈をして下車していった。

 その背中には、“育児戦士(ビギナー)”と刺繍されたバッグが光っていた。

 俺は思った。

 ――たぶんこの人、社会的にめちゃくちゃ浮いてる。でも、全力でかっこいい。

 その日の午後。会社で昼休みにこの話をしたら、総務の宮内さん(子持ち・40代)が静かに立ち上がった。

「……その人、うちの弟です」

「えっ!? 弟さん!? 本物!?」

「たぶん昨日、“パパって呼ばれた!”って泣いてたから間違いないです。昔から、やるとなったら全力で恥をかくタイプで……」

「いや、むしろ今の時代、そういう“恥かき勇者”がいないと変わらないですよ……」

 次の日。

 なぜか会社の自販機の横に「ベビーマーク、自主着用コーナー」が設置された。
 “父母の初心者を誇ろう”という謎スローガンとともに。

 そして俺は、自販機に貼ってあった張り紙にふと目を奪われた。

「赤ちゃんがいます」だけじゃない。
「赤ちゃんがいる人を育ててます」って、言ったっていい。

 赤いベビーマークは、今日もどこかで誰かの初心者マークになっている。


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