第32巻 江東区:コウトウノカミの願い
江東区の朝は潮風の香りとともに始まる。
東京湾に面したこの地域は、物流の要として多くの倉庫やコンテナが立ち並び、絶え間なく人と物が行き交う街だ。
その隅っこ、誰も気に留めないような古びた倉庫の屋根の上に、今日もひっそりと座っている神様がいた。
コウトウノカミ。
海と倉庫を見守る神。クールで実直。口数が少ないことで知られている。
願い事を「海っぽく」変換して叶えるという独特のスタイルを持つが、その実、彼自身はあまり説明をしない。
朝陽はこの街で暮らす青年で、港湾で働きながら淡々と日々を送っていた。
まじめで控えめ。だが、心の奥底には「もっと自分らしい生き方がしたい」という小さな願いがくすぶっていた。
ある日の朝、いつものようにトラックを誘導していると、突然頭上からポトリと何かが落ちてきた。
コンテナの屋根の上から転がってきたのは、海を模したような青緑の小さな巻貝。
拾い上げた瞬間、潮の匂いとともに、ひとつの声が耳元に届いた。
「お前、もうちょっと、流れに逆らっていい」
振り返ると、いつの間にか古倉庫の影に佇む神様がいた。
青く光る目と、びしょ濡れの上着、そして海風を背負った存在感。
それがコウトウノカミだった。
「お前の願い、受信した。対応、開始」
それだけ言い残し、彼はまた倉庫の上に消えた。
それからというもの、朝陽のまわりでは妙なことが起き始めた。
物流スケジュールが突如「潮の干満」にあわせて自動調整され、荷物の到着タイミングが絶妙になった。
いつも通りだった港の空気が、なぜか新鮮に感じられ、倉庫作業も不思議なほどリズミカルに進んだ。
最初はただの偶然かと思っていたが、それは確実に「何か」が働いていた。
同僚たちは口々に「最近調子よくない?」「朝陽がいると波に乗れてる感じ」と言い始めた。
だがそれは、心の奥の「何か」を見ないようにしていた朝陽にとって、逆に苦しみでもあった。
何が自分の力で、何が神様のおかげなのか。
流れに乗ってるようで、どこか運ばれてるだけのような、自分の足で立ててないような感覚。
ある日、雨の降る港で、彼はとうとうコウトウノカミに向かって叫んだ。
「この流れって、本当に自分のものなんですか? 自分で選べてますか、俺は――!」
しばしの沈黙ののち、神様は潮の香りとともに現れ、静かに言った。
「流れは与える。進むか、抗うかは、お前の漕ぎ方次第」
そして、古い倉庫の一つの扉が、ギィィ、と勝手に開いた。
中にあったのは、使われなくなった木製の手漕ぎボート。
「お前はもう港の風を読める。あとは、漕げ」
その夜、朝陽は倉庫街の片隅で、一人小さな手漕ぎボートを磨いていた。
使い道も行き先も決まっていなかったが、何かが変わったと感じた。
翌朝、彼は出勤前にその船を引きずり出し、埠頭の一番端に浮かべた。
波はまだ静かだったが、確かに動いていた。
その背中を、いつもの無表情な神様が、無言で見守っていた。
「進路、自由」
その言葉だけが、海のように静かに、深く、朝陽の中に残った。
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