第35巻 松戸市:マツドノカミの願い
松戸市の古い町並みは、どこか懐かしい空気に包まれている。大正時代の香りを残す木造の家々が並び、ゆったりとした時間が流れる路地裏には、猫が一匹、のんびりと尻尾を揺らしていた。
その一角に、ひときわ目立たぬ佇まいの小さな祠がある。苔むした石灯籠の隣で、ぼんやりとお茶を啜っているのがマツドノカミ。彼は願いを叶える神様だが、極度にマイペース。何事もレトロ趣味に包みたがる傾向があり、願いを叶えるときは必ずどこかに「昭和の味」を添えてしまう。
この日も、マツドノカミは新聞紙に包んだあんぱんをぽそぽそと食べながら、町の様子を静かに眺めていた。
「ほう。今日もレトロ指数、よろしいな……」
そこへ、修平が現れた。近くの古民家を改装したカフェを営む彼は、職人気質で無駄が嫌い。しかも最近、客足がぱたりと途絶え、頭を抱えていた。
「くそっ……インスタ映え狙いのカフェに客を取られた……。古き良き喫茶って、そんなにダメか?」
マツドノカミは彼のつぶやきを逃さなかった。
「おお、ええやん。それ、願いやな。レトロの本気、見せたるで」
ぼそっと呟くと、神様は小さな団扇を一振り。すると、修平のカフェに微妙な変化が起きはじめた。
まず、店の入り口に「昭和歌謡の生演奏」の文字が。見覚えのない蓄音機がカウンターに鎮座し、なぜか炭酸水が「ラムネ」名義で自動的に注文される仕様に。
そして、客層が変わった。白髪交じりのダンディなおじさまたちが懐かしそうに店を訪れ、口々に言う。
「ほう……ここのホットケーキ、昔食べた味や……」
「この椅子、うちのじいさん家にあったのとそっくりやんか」
戸惑いながらも、修平は少しずつ客の反応に手応えを感じ始めた。
その頃、カフェの手伝いに来ていた智美は、冷静に状況を分析していた。彼女は職人気質で、店の内装からメニューに至るまで細部にこだわる性格だ。神様の介入を感じ取った彼女は、ある日修平に詰め寄る。
「……誰かに変な願い事、してない?」
「いや、してない……してない……ような、したような……」
そこへ現れたのが、堅志。口数は少ないが、他人の意見を素直に受け入れる柔軟さを持つ青年だ。
「古いものには、古いものなりの良さがあると思う。ここも悪くない」
堅志の言葉は、修平の心に静かに染み込んだ。
その日、マツドノカミはこっそり店内を覗き見ていた。あんぱんを手に、ゆっくりとうなずく。
「ふむ……ちょっとやりすぎたかもしれん。昭和が強すぎて平成が迷子や」
神様は反省しながらも、カフェに“ちょっとだけ昭和”を残す調整を入れた。喫茶のBGMが昭和歌謡から1990年代のポップスに変更され、昭和の生演奏は「第2・第4水曜限定」となった。
昌美は、文化系の知識を生かして「レトロ文化解説イベント」を企画。これがまた大好評で、地域の小中学生を対象にした「昭和体験授業」まで始まり、町の話題をさらった。
神様の“レトロ願望”と、現代の工夫が奇跡的に噛み合い、修平のカフェは独自の個性を持つようになった。
ある日、神様は再びカフェに足を運ぶ。もちろん、神の姿は人には見えない。
だが、店に入るなり、修平がふと空を見上げて言った。
「……あんぱんの匂いがする」
その瞬間、マツドノカミはちょっとだけ微笑んだ。神様の願いの叶え方は、どこまでも控えめだ。けれども確かに、そこには“味わい深さ”があった。
日が落ちる頃、カフェにはゆるやかなジャズが流れていた。客は少しずつ帰り、店内に残ったのは修平、智美、堅志、そして昌美。
「ねえ、次は“平成レトロ”ってのも試してみない?」
「それ、平成って言いながらも令和の話じゃね?」
「うるさい、考古学的にはもう遺物なの」
四人の会話に、マツドノカミは静かに耳を傾けていた。
「願いってのは、叶った瞬間だけが大事なんとちゃう。そこから、どんな空気が生まれるかやな……」
松戸の夜は静かで、どこか懐かしい。今日もマツドノカミは、町の片隅でお茶を啜りながら、ちょっとだけ働く気がある……かもしれない。
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