『左押し専門係、田嶋です』
「お世話になっております。株式会社ひだりて産業、田嶋と申します」
まさか、こんな業界があるとは思わなかった。
ある日、僕の勤めるマンション管理会社に、「全自動エレベーター左ボタン押下業務」の見積もり書が届いた。なんと“左ボタンを押すだけ”で月額12万円。
バカにしてるのかと思ったら、翌週から本当にその人が来た。
「左押し専門係、田嶋です」
スーツをビシッと着こなし、指だけはやたら鍛え抜かれている40代半ばの男。
右手を絶対に使わないポリシーらしい。
「……すみません、えっと……何を?」
「左のボタンを押すだけです」
「やっぱり!?」
エレベーターの“左のボタン”。つまり、主に「開く」や、下階を意味するもの。それを彼は専門にしているという。
* * *
その日から、我がマンションのロビーには「田嶋さん」が常駐するようになった。
朝、出勤時。
「おはようございます、田嶋です」
「えっ、どうも……(なんでこの人、ボタンの前で直立してんの?)」
僕がエレベーターに乗ろうとしたとき――
「ッターン!!」
ものすごい勢いで、「開」ボタンが押された。
「うわっ、すごい勢い……」
「左手は、心ですから」
「どういう信念!?」
しかも、何がすごいって、その指先。絶妙なタイミングで、扉が閉まりそうになる瞬間に“左押し”する。
いわば、神業。
センサーを信用していない、というか、センサーを超えてきている。
田嶋さんの噂は、瞬く間に広まった。
「田嶋さんの“開”がなければ、私は今、間に合っていませんでした……」
「子どもが扉に挟まれそうになった瞬間、彼の左手が“サッ”と……まるで風……」
「うちの猫も助けられました」
……猫!?
いつの間にか、彼は「マンションの守護左手」と呼ばれていた。
* * *
ある日、深夜。
コンビニ帰りの僕は、彼とたまたま同じエレベーターに乗り合わせた。エレベーターは1階へ。
「……そういえば、右手で押したらどうなるんですか?」
僕が聞くと、田嶋さんはすこし寂しそうに笑った。
「昔は……両手で押していたんですよ」
「ほう……」
「でもね、ある日、同時に“開”と“閉”を押してしまって。……エレベーターが止まったんです」
「そんな物理バグみたいな話あります!?」
「それからですよ。この世界には“選ぶ指”があるんだと、知ったのは。」
なんか知らんが名言っぽく言った!
* * *
その後も彼は、雨の日も風の日も左押しを続けた。
あるときは、カートに乗った買い物帰りのおばあちゃんが、
「助かったよぉ〜、若いのぉ……田嶋ちゃん、今日も押してくれてありがとうねぇ」
と微笑む。田嶋さんは深くお辞儀をした。
またあるときは、小学生たちがわざと全ボタンを押すという悪行に及ぼうとした瞬間――
「指を出す前に、人生を考え直した方がいい」
と静かに言い放ち、子どもたちの手を止めた。
彼の“左手説法”には、なぜか誰も逆らえない。
僕は、だんだんとその姿に敬意すら覚えるようになっていた。
* * *
そんなある日、事件が起きた。
その日の朝、珍しく田嶋さんの姿がなかった。エレベーター前には、手書きの張り紙。
《左手、軽度の捻挫により療養中。押下対応は休止。皆さまの左に幸あれ 田嶋》
「……え、そんな……」
住民たちが動揺する中、エレベーターは驚くほど混乱した。
・閉まりかけの扉に誰かが突っ込む
・子どもが押し間違えて16階へ
・「あれ、どこ押せばいいんだっけ?」という謎の記憶喪失者発生
皆、左ボタンの重みを思い知った。
「……田嶋さんが、いないとこんなに……」
「俺たち、何も考えずに“開けてもらってた”んだな……」
「右ばっか使ってたよな……左って、こんな大事だったんだ……」
思えば、生活の中で“左”はいつも地味だった。
右がリモコン持って、箸を握り、パスワードを打ち込む中、左はそっと支えていた。
田嶋さんは、そんな“左”の可能性を教えてくれたのだ。
* * *
一週間後、エレベーター前に復活した田嶋さんの姿に、住民が自然と拍手を送った。
彼は静かに左手を上げ、言った。
「皆さん、今日も“開けて”まいりましょう」
誰かが泣いた。
なんかもう、映画化してくれ。
* * *
数ヶ月後、僕は管理会社を辞めた。理由はひとつ。
「俺も、誰かの“左”になりたい」
今、僕は市役所で「公的な“押しボタン支援員”」として働いている。
信号の押しボタン、駅の非常ボタン、エスカレーターの一時停止。
「気づいていない“押すべき瞬間”」に、さりげなく左手で差し込む。
まだまだ、田嶋さんには遠く及ばない。
けれど、あの日言われた言葉が、ずっと僕の中にある。
「迷ったときは、左を選べ」
今日も僕は、左手で誰かの日常を“開けて”いる。
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