第8話「理科室の恋文(?)事件」
放課後の理科室。
まだ夕日が窓辺を照らしている中、アルキメデスは試験管に囲まれていた。
「美しい……この精度、この曲率……」
机の上にずらりと並んだビーカー、メスシリンダー、アルコールランプ。
すべてが、彼にとっては“楽器”にも等しい存在だった。
「この“三角フラスコ”という構造、素晴らしい。先端が細く、底が広く、液体の揺れを最小限に抑える……! これを思いついた者はきっと詩人に違いない……!」
松井が言っていた。「授業がない日は立ち入り禁止だよ」と。
だがアルキメデスは「我慢という言葉は、ギリシャ語にはない」と言って堂々とドアを開けていた。
—
棚をひとつひとつ開け、顕微鏡をひとしきり覗き倒したあと、彼はふと、試験管の中に巻かれたメモに気づいた。
「む?」
それは、まるでメッセージボトルのように、小さく丸められた紙片だった。
ピンセットでそっと取り出し、広げてみると——
『アナタノ ホウソク ステキ』
「……!?」
思わず椅子から立ち上がる。
「こ、これは……!」
頬が、わずかに赤らむ。
「これは……この紙の主が、わたしに宛てた、直接的な意思表示……!?」
—
そこへ、ちょうど理科準備室から戻ってきた女子生徒・吉澤が声をかける。
「あれ? アルキメデスさん、どうしたんですか? 顔赤いですよ?」
「いや……その、なんというか……この“紙”を見つけてな……」
「え? えっ!? あっ……それ、見ちゃいました!?」
「やはり、これは“君”が書いたのか!」
「え、違います! それ、私じゃなくて! 理科部の後輩が……その……!」
「では、この言葉の主は……“後輩”か!?」
「いやそういう意味じゃなくて! “法則”って、数式とか現象とか、そういう意味で!」
—
説明に苦慮する吉澤の横で、アルキメデスは真顔で続ける。
「だが……“ホウソク ステキ”と来れば……これはどう読んでも、“そなたの生み出す理に心惹かれた”という意味ではないか……?」
「だから! そうなんですけど! でもそれは、恋とかじゃなくて!」
「そうか……“知の恋”ということか。……なるほど、それはそれで高貴な行為だな……」
「いやだから違うってばあああ!」
「わたしの“理”が……現代の若者に届いておるとは……」
アルキメデスは試験管とメモを両手に掲げ、感慨深げに言った。
「こうして法則に心を寄せてくれる者がいるならば、わたしの役目も……まだあるということか……」
「……いやあの、本当にただの理科愛なんで」
吉澤は頭を抱えながら、メモの経緯を説明した。
「理科部で“誰がいちばん好きな法則か”って話してて、後輩の子が“アルキメデスの原理、カッコいい”って。だからちょっとふざけて書いて試験管に入れただけで……」
「……そなたらの世界では、“法則”にも恋が芽生えるのか……」
「芽生えてないってば!」
—
その後、放課後の理科部ではちょっとした騒ぎになっていた。
「え!? あのメモ、見つかったの!?」「やば! めっちゃ恥ずかしい!!」「てか、本人に伝わったの!? え、アルキメデス本人!? マジで!?!?」
部長の吉澤がうろたえる後輩たちに言い放つ。
「いい? 彼はたぶん“知の擬人化”みたいな人だから、普通のラブレター感覚で受け取ってないから! “これは科学的好意だな”って言ってたから! 大丈夫だから!」
「それ、余計に恥ずかしいんだけど!!」
—
その頃アルキメデスは、図書室で一人、理科辞典を読みながら呟いていた。
「わしの定めし“浮力の法則”が、この世界でもなお愛されておる……しかも、実験器具を通じて……」
「これぞ、“時代を超えた共鳴”というやつか……。美しい。……実に、美しいぞ……!」
—
そこへ現れた松井。
「聞いたよ、なんか理科部の子が“法則に惚れた”って?」
「うむ。“知への恋”とは、深く尊い感情だな。恋慕とは心の浮力——この言葉、記しておくべきか?」
「やめて。ラブレターを物理で返すのやめて」
—
その夜、寮の部屋に戻ったアルキメデスは、ノートにこんな一節を記した。
《現代における“恋”の一考察》
・人は、物理法則にも情を抱く
・それは、理解という形を取った情熱である
・わしの法則が“好き”と表現されたこと、誇りに思う
・なお、“ホウソク ステキ”は……何度見ても照れる
そしてそっと、メモをふくさに包み、引き出しにしまった。
まるで、大切な証明書のように。
(第8話 完)
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