『潜れ!スーツマン』
「君、それでほんとに潜るのかね?」
朝10時、海辺のダイビング施設に現れたのは、ネイビーのスリーピーススーツにネクタイ、革靴、そしてなぜか完璧にフィットしたダイビングマスクを装着した男だった。
その異様な出で立ちに、インストラクターの結城は問わずにいられなかった。
「潜りますよ、当然」
男はマスクの下でニヤリと笑い、スーツのボタンを留め直した。ポケットからは防水仕様と思われる名刺が数枚はみ出ている。
「なぜスーツで?」
「ビジネスだからですよ。海中でも、マナーが第一です」
「何のビジネスなんですか!?」
「海底不動産の営業です。あそこのサンゴの間に3LDK空いてるんで、今日は現地調査です」
おかしい。色々とおかしい。
しかし本人は至って真面目である。周囲のスタッフが笑いをこらえるなか、彼はスーツの下にウェットスーツを一切着ていなかった。むき出しのYシャツと革のベルトでタンクを締め付けている。どう見ても地上向き。
「いや、その格好じゃ動けませんって。抵抗すごいですよ?」
「無問題です。私は“水の中の風”と呼ばれていますので」
「初めて聞きましたよ、そんな異名」
男はそう言うと、フィンもつけずにそのまま海に飛び込んだ。バッシャーン!と豪快な音を立て、波しぶきが豪快に舞った。
10秒……20秒……1分経過。
「あ、あれ?浮いてこない……まさか溺れて……」
結城が心配して駆け寄ろうとしたその時、バブルの中から男が優雅に浮上してきた。
「うむ、海底会議は順調です。クラゲの村長から了承をいただきました」
「会議って何!?」
「次回はタコの弁護士と契約書にサインです」
誰がペン持つんだよ。
結城は必死にツッコミを我慢したが、耐えきれず吹き出した。
「いやもう、営業でも何でもいいですけど、どうしてもスーツでやらなきゃダメなんですか?」
男は少し黙り、濡れたネクタイをしぼりながらこう言った。
「……かつて、私はスーツを脱ぎすてたことがあった」
「え?」
「服装自由のIT企業に転職したんですよ。でもね……何を着ても、心がビシッとしなかったんです。ジャージだと“昼寝”してしまい、アロハシャツだと“ピニャコラーダ”が欲しくなる。だから、気づいたんです。“自分を律する服”ってあるんだなと」
結城は思わず聞き入ってしまった。そこだけ急にいい話っぽい。
「で、なぜ海に?」
「営業ノルマです」
「急に生々しいな!!」
その後、男は「海底コンシェルジュ・水谷(みずたに)」として活動を始め、奇抜な格好と真摯な対応で、なぜか“マリンリゾートのお抱え営業マン”として有名になった。
SNSにはこう書かれる。
「今日、スーツ着たままダイビングしてる変な人いたけど、態度が超礼儀正しくて契約しちゃった」
「海の中で“本日はよろしくお願いいたします”って言われたの初めてだった」
「イカに名刺渡してたけど、本人真剣だったから信じたくなった」
いつの間にか水谷は、海底で唯一ネクタイを締めた男として、水族館にも呼ばれる存在となった。イルカショーのMC、海女さんとの異文化交流、シュノーケリングでの営業相談、なんでもこなした。
一度だけ、イルカにスーツを奪われそうになったときは、
「OK、これは貸与扱いで」
とサイン付きの契約書を差し出し、イルカを呆れさせた。
今では、海沿いの自治体が「水谷に案内される海の住宅ツアー」をPRイベントにしている。
なお、彼の営業成績は業界トップクラスである。
「なぜそこまでやれるんですか?」
と聞かれたとき、水谷は静かに言った。
「人が足を踏み入れない場所には、だいたいチャンスが沈んでるもんですよ」
水の中で、ネクタイがふわりと揺れた。
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