第45巻 旭川市:アサヒカワノカミの願い
冬の旭川。風は肌を刺し、空気は鼻毛を凍らせ、路面は滑るというより、氷の布団を敷いたような具合だった。そんな過酷な環境でも、人々は黙々と通勤し、雪の中から信号機を発掘し、日々を生きていた。
その町の裏道、雪の降り積もる小さな木造倉庫の屋根裏に――ひとり、というかひと柱の神様がじっと座っていた。
アサヒカワノカミ。寒さにめっぽう強く、願いを叶える際は「寒冷地仕様」に変換してしまう神様である。
性格はクールで無口。必要なこと以外は喋らないし、必要なこともよくメモで済ます。願いを聞けば、最適解をピシャリと返してくるが、その“正解”がズレてることも多い。
今日も雪に埋もれそうな窓から街を見下ろしながら、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。
《気配……願いの予感あり》
その頃、駅前でバイトを終えた高校生の新は、スマホを手にぽつりとつぶやいた。
「……俺にも、なんか“ピシッとしたもの”があればなぁ」
フォロワー気質で、基本的に人に合わせることで生き延びてきた彼は、何か自分の芯のようなものを持ちたいと思っていた。
その願いを、アサヒカワノカミは無言で受信。即座にメモに記す。
《対応:自律強化/環境適応=寒冷地フィルター付与》
その瞬間、新のスマホの天気アプリが謎の「内面気温」表示に切り替わり、「外気温:−10℃ あなたの精神:耐寒モードON」と表示された。
そして不思議なことに、新が寒さをまったく感じなくなった。
「え? さっきまで手ちぎれるかと思ってたのに……。なにこれ、俺って今、北極仕様?」
その後、新はなぜか通学中も凍った路面を一人だけ平然と歩き、スリップする同級生を華麗にスルー。廊下の結露すら「湿度バランス悪い」とつぶやく始末。
だがその変化にいち早く気づいたのが、同級生の夏妃だった。
「新、最近なんか“無敵モード”入ってない?」
「……寒さ感じなくなった」
「それ、喜ぶところじゃないって。人間ってね、寒さを感じるから防寒するのよ。感じなくなったらそれ、たぶん“末期”」
「でも、すごく快適で……誰に合わせなくてもいい感じ……するんだ」
夏妃はそれを聞いて、顔をしかめた。
「それ、“合わせなくてもいい”っていうより、“何も感じなくなってる”だけじゃないの?」
その言葉が、新の胸にすこしだけ冷たく突き刺さった。
夏妃の言葉は、新の心に雪の結晶のようにじわじわと積もっていった。
寒さを感じない。誰にも振り回されない。けれど――
(なんだろう……やけに、寂しい)
教室の窓際で、雪が降るのをぼんやりと眺めていると、隣に座っていた孝城が、静かに声をかけてきた。
「なあ、新。最近、誰の意見にも“うん”って言わなくなったね」
「え、そうかな?」
「前は、俺がくだらないこと言ってもちゃんと笑ってくれてたのに、最近は“判断保留”って言ってスルーするやん」
「……合理的に考えて、それが正しいと判断しただけで……」
「たぶんそれ、“冷たい”ってやつやで」
孝城は、誰の意見にも敬意を持つ柔らかな性格だが、それだけに“新らしさ”が失われつつあることに気づいていた。
そこへ、千佳世がやってくる。彼女は他人の行動をよく覚えているタイプで、過去の些細な変化にも敏感だ。
「新くん、今週ずっと廊下の掃除当番してないでしょ。先週までは一人で黙々とやってたのに」
「……気温−10度の日に雑巾がけするの、物理的に無駄だと思って」
「そういうとこ、前は“まあやっとくか”って言ってたじゃん。あなたって、たぶん“ちょっと無理する”のがらしさだったよ」
千佳世の言葉に、新は何も言えなかった。
神様はその様子を、氷の窓越しにじっと見ていた。
口には出さず、メモにこう記していた。
《願い叶えし過程において、対象人物の人格形成に副作用確認。修正対応要否:Yes》
神様は静かに雪を手に取り、それをぎゅっと握ったあと、そっと空に放った。
その雪は町のあちこちにふわりと届き、ほんのわずかに“ぬくもり”を残していった。
次の日――
新はいつものように通学路を歩いていたが、急にふわっとした感覚が胸の中に戻ってきた。
ふと、凍った雪の路面を掃除する用務員の背中が目に入り、無意識に手伝いに向かっていた。
「お、ありがとなあ。昨日まで完全に“氷の君”だったのにな」
「……いや、なんか……手が動いた」
教室に入ると、夏妃がこっそり笑っていた。
「おかえり、鈍感でも共感できる人間」
「……それ、褒めてる?」
「もちろん。人間なんて、ちょっと“寒さ”感じながら生きてくくらいが、ちょうどいいんじゃない?」
その日、新のスマホに再び天気アプリから通知が届いた。
《内面気温:−2℃ 感情感度:上昇中。人肌対応モードON》
新はそっと笑って、スマホをポケットにしまった。
倉庫の屋根裏、神様はまた静かに目を閉じていた。
そのメモ帳には、こう記されていた。
《寒さに強くなっても、ぬくもりは忘れさせぬよう、注意せよ》
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