散髪大戦:刈るか、刈られるか
「……え、今日“美容院”行くんスか? マジで?」
職場の昼休み、後輩の藤井が恐怖に震えながら言った。
「美容院、怖くないっすか? 俺、二年前から自宅バリカン派っスよ。会話のダメージが深刻で……」
そんなことを言いながら、彼は頭の左右で長さの違う見事な“非対称ソリッド”をキメていた。
まるで失敗した盆栽。いや、前衛アートかもしれない。
逆に、俺は月一で行ってる。
何を隠そう、美容院とはこの文明社会において、最も緊張と無言の圧が支配する空間。
会話地雷と沈黙恐怖の密室に、人間は自ら突っ込んでいく。
今回の舞台は、地元でひっそり人気の美容室「airN(エア・ン)」。
■前提情報
・カット担当:オーナー兼スタイリストの秋月(強そうな名前)
・店内BGM:謎の環境音(たぶん滝)
・ドリンク:やたら高そうなハーブティー
私は予約時間に滑り込み、深呼吸して席に座る。
──さて、戦いのはじまりだ。
第一の関門は「カウンセリング」だ。
秋月:「今日はどうされます?」
私:「あ、ちょっとだけ短く、でも重すぎない程度に軽くしていただけたら……」
秋月:「……?」
もうダメだ。伝わってない。
美容師と客の“言葉の解釈ちがい”は、人類最古の難題である。
「ちょっとだけ軽く」と言えば、マッシュルームになる。
「横は流して」と言えば、横だけ爆発する。
「襟足は自然に」と言えば、なぜか剃られる。
そして私は「おまかせします」と言って後悔するタイプだ。
秋月:「わかりました。バランス整えつつ、前髪にちょっと動き出してみますね」
──“動き”ってなんだよ。
第二の関門は「洗髪」だ。
タオルを巻かれて仰向けになり、見知らぬ人に後頭部を濡らされる不安感。
天井を見つめて「このまま眠ってしまったら、口開いたまま寝るんだろうな」という羞恥心との戦い。
そして何より怖いのが──
「お湯加減いかがですか?」
それに対して何と答えるべきか?
「ちょうどいいです」と言っても、実はちょっと熱い。
だが「少しぬるめで」と言う勇気が出ない。もう逃げ場がない。
私はいつも“表情だけで耐える”戦法をとっているが、それはそれで「無口で怖い客」のレッテルを貼られるリスクがある。
洗髪は沈黙の心理戦である。
そして第三の関門、メインイベント「カット&会話」タイムがはじまる。
秋月:「最近なにか映画とか観ました?」
──来たぞ、世間話!
「ええと、あの……古いんですけど、『ショーシャンクの空に』とか……」
秋月:「へぇ~……(昭和の男……?)」
沈黙。
次の質問は必ず「お休みは何してるんですか?」だと予測していたが──
秋月:「猫派ですか? 犬派ですか?」
予想外の変化球が来た。混乱する私。
「……あ、魚派です」
秋月:「……?」
やってしまった。
このあと、会話が完全に消滅し、秋月は急に“職人モード”になった。
チョキチョキとハサミの音だけが響く店内。
なぜだ。なぜ私は美容院で「魚派です」などと供述してしまったのか。
しかも言ってから思い出したが、魚も飼ってない。
だが、美容院の恐怖はこれで終わらない。
最後の関門は──「仕上がりの確認」である。
鏡を渡される。
「いかがですか?」
……はい来た。“いいです”しか言えないやつ!
前髪がちょっと短くても、「すごく新鮮です!」と逆に褒めなければならない謎のプレッシャー。
鏡の中の自分は、“社会に適応した嘘つきの顔”をしていた。
会計を済ませ、外に出ると、風がふわりと髪を撫でた。
……うん、なんだかんだ、すっきりしてるな。
そして後日、職場にて。
藤井:「先輩、なんか今日イケてません? 美容院すげぇ……!」
私はドヤ顔で言った。
「まあな。あそこ、滝の音が流れてくる店なんだよ」
藤井:「え、滝? 修行系っスか?」
いや違う。たぶん自然音だ。
だがなぜか、それが妙に気に入ってしまい──
私は次の予約を取った。
魚派であることを、今度は正々堂々と語れるように。
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