第48巻 豊島区:トシマノカミの願い
池袋駅東口の裏手、サンシャイン通りを一本外れたところに、小さな祠がある。見つけようとしなければ絶対に見つからないような場所。見つけたとしても、誰かが設置した猫の餌台か、地元民しか知らない古びたポストかと見間違えるほどひっそりしている。
そこにいるのが、豊島区を見守る神様――トシマノカミだ。
彼はちいさな、けれど気品ある佇まいで、今日も淡々と仕事をサボっていた。
「今日はね、風が強いから……おやすみの日なんだよ」
そんな理由で神様業務をサボる神がいていいのかと思うが、トシマノカミは極めて真面目な顔で納得している。祭壇には干し芋、文庫本、そしてなぜか猫のぬいぐるみが並んでいる。好物なのか、依頼主の供え物なのか、はたまた忘れ物か。真相は、彼のみぞ知る。
ところがある日、その祠の前に――ランドセルを背負った小学生女子が現れた。
「ねえ、神様。ちょっとだけお願い、いい?」
声をかけたのは小学五年生の**恵美(えみ)**だった。彼女は両手でぎゅっとお守り袋を握りしめ、神様の前に正座した。お辞儀もきちんと、目はまっすぐ。
トシマノカミはその態度に驚いたように首を傾げると、しばし沈黙してからこう答えた。
「……ちょっとだけなら、聞こうかな。でも、ほんとにちょっとだけだよ?」
「うん、ちょっとだけでいいの。お母さんがね、お仕事忙しくて、最近ぜんぜん笑わないの」
ああ、それか。神様の表情に、ふっと優しさが混じった。
「それでね、お母さんが好きだった、あの小説……探してもどこにも売ってなくて。もう絶版なんだって。メルカリで見たら一万円してて、お小遣いじゃ全然足りなくて……だからお願い、神様、ちょっとだけ助けて」
その願いを聞いたトシマノカミ、ぐるりと周囲を見渡すと、手のひらサイズの扇子を取り出した。ぽん、と小さく開いて風を送る。ふわりとページの香りが空気に混じった。
「ふむ……絶版の文庫本。ページ数は……ほう、ちょうど三百ページ。ロマンスと家族愛の中間だね」
「えっ、それもう見えるの!?」
「神だからね」
そして次の瞬間、神様はなんと――。
「それ、池袋の東急ハンズの裏手、古書市の段ボールの中、左から三番目の箱にあるよ。たぶんホコリかぶってるけど、きれいに拭けば新品みたいになる。100円で買える」
「……すごい情報!」
だが恵美は、思い出したように眉をひそめた。
「でも……あの古書市、もう終わってるって聞いたよ? 昨日までだったって……」
トシマノカミは、えらく真剣な顔で答えた。
「うん、だから今日までは“まだ”終わってないってことにしておいた」
「えええええ!? 時間いじったの!?」
「ちょっとだけだよ」
さすが神様、ちょっとだけ時空を曲げるとはなんとも器用な。
結果――恵美はその本を手に入れた。母親に渡すと、目に涙を浮かべて喜び、久しぶりに笑顔がこぼれた。何より、ページをめくる母の姿に、恵美はほっと胸をなでおろした。
そして次の日。
「神様! 昨日はありがとう!」
恵美が祠を訪れると、そこには相変わらず神様が座っていた。干し芋をかじりながら、なにやら小さなスケッチブックをめくっている。
「うん、どういたしまして。でも、まだ神様業務は続かないよ。今日も風がね、ちょっと強いから」
「うん、知ってる。だから“また”お願いしにきたの!」
「えっ」
「お母さん、今度はあの本の作者さんにファンレター書こうって。だけど住所が見つからないって落ち込んでたの……だから――ちょっとだけ!」
トシマノカミは、もぐもぐと干し芋をかじりながら、そっと呟いた。
「……これ、長期案件になるやつだ……」
それでも、彼は断らなかった。
その夜、池袋のネオンにまぎれ、トシマノカミは書店街の屋根をひょいひょいと飛び渡る。目指すは、雑居ビルの五階にある――「万年筆と書簡の店・文葉堂」。
そこには、全国の作家のファンレターが一度集まるという謎のポストがある。常連の出版関係者が“運命的に見つけることもある”という都市伝説つきだ。神様はこの界隈のそういう“ちょっとズレたリアリティ”にはやたらと詳しい。
「この住所でいいって、風が言ってた」
神様は手のひらに風をのせて囁いた。
「……ふむ、ファンレターを投函するには、まずこの封筒に入れて――でも住所は空白にしておこう。作者が決まったときだけ届くんだ」
まるで魔法のような仕組みだった。いや、神様がやっているのだから実質魔法だろう。
数日後――祠に現れたのは、母・香織だった。
「もしかして……あなたが、恵美の言ってた“ちょっとだけ神様”ですか?」
「ちょっとだけね。大したことはしてないよ」
「ありがとうございます、本当に。本、届きました。お返事まで……。しかも、作者さんから“よかったら今度、一緒にイベントに出ませんか?”って」
「へえ……あの人、人見知りだったのに。変わったなぁ」
母が驚いた顔をした。
「ご存知なんですか?」
「少しね。昔、池袋西口公園のベンチで、ノートを手に泣いてたから。風が気にしてたよ」
香織は一瞬、神様の目を見つめてから、ふわりと笑った。
「また……誰かの願いを、ちょっとだけ叶えてあげてくださいね」
「もちろん。でも今日はね……」
「風が強いから?」
「……うん、そう。あと、干し芋が切れた」
それから数日後。
祠の前には、干し芋三本、文庫本一冊、そして――
「ありがとう神様」
そう書かれた短い手紙が、風に揺れていた。
小さな願いがひとつ。ほんの“ちょっとだけ”叶った日。
池袋のビルの隙間にて、神様は今日も静かに微笑んでいる。
願いが“ちょっとだけ”のぶんだけ――
それは誰かの心を、ちゃんとまるごと動かしていた。
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