第36巻 市川市:イチカワノカミの願い
江戸川の流れは、穏やかで、少しだけ気まぐれだった。川辺に揺れるススキの葉が、風の通り道を教えてくれるように、静かにそよぐ。市川市のこの辺りは、騒がしさとは無縁で、子どもたちの笑い声と、時折すれ違う自転車のベルの音が、何気ない日常に心地よいリズムを刻んでいた。
その川沿いの大きな木の根元に、ちょこんと座っているのがイチカワノカミだった。ひと目見てそれと気づく者はいない。木漏れ日に紛れるように佇むその姿は、半透明で、どこか水の気配を纏っている。神様というより、春先に出てくる物思いにふける妖精のようだった。
イチカワノカミは、願いを聞くことは聞くが、あくまで「穏やかに」が信条。強く変えようとはせず、願いにそっと水のような変化を添えるだけ。それゆえ、本人が願いが叶ったことに気づかないことすらある。今日も神様は、江戸川の水面に映る空をぼんやり眺めながら、ぼそっと呟いた。
「今日も、誰かの願いが流れてくるかな」
そこへ現れたのが、優真。地元の中学生で、川沿いを通って学校へ向かうのが日課だった。彼は人の気持ちを察するのが得意で、クラスでは“お兄さん的存在”と呼ばれていたが、そのぶん、自分のことは後回しにしてしまうところがある。
この日、彼は一人でベンチに座り、川を見つめながら小さく漏らした。
「……もう少し、皆が穏やかに過ごせたらな」
その一言に、イチカワノカミの水のような目がすっと細められた。
「……おお、それはいい願いや。ほな、ちょっとだけ流れを変えてみよか」
翌日から、クラスに小さな変化が訪れた。
いつも遅刻してくる男子が、時間ぴったりに登校してきたり、体育の授業で鬼ごっこがはじまっても、なぜか全員が無言で“譲り合いながら”走り回るという不可解な現象が続いた。
「……なにこれ、優しさの大渋滞じゃん……」と、美希が思わず呟いた。彼女は競争を避ける性格で、普段から体育も美術も“参加はするけど本気は出さない”主義。けれどこの“みんながゆるすぎる現象”には、逆にソワソワしていた。
「私が一番まともなテンションかも……いや、どうしよう、すごく居心地悪い……」
一方、義悠は何も言わずに観察を続けていた。彼は普段から人前で涙を見せないほどの鉄面皮で、何があっても無表情を貫いていた。しかしこの時期、彼の表情がほんのわずかに柔らいでいたことに、誰も気づかなかった。
唯一、海奈代だけは「何か変」と気づいていた。彼女は他人の意見に無関心というより、“人に流されない”芯の強さを持つ少女で、どこか川の流れと反対に進む魚のような気質がある。
「……ねえ、最近おかしくない?みんな、なんか……水の中で生きてるみたいに、ふわふわしてない?」
それを聞いた優真は、少しだけ戸惑った顔を見せた。
「……でも、みんな楽しそうだし。僕も、楽でいいかなって思ってた」
海奈代はじっと彼を見て、ぽつりと呟いた。
「楽すぎると、動けなくなるよ」
その言葉に、優真の心に水面に落ちた石のような波紋が広がった。
その夜、イチカワノカミはベンチの上に腰を下ろし、川の流れを見つめていた。
「……ちょっと、流しすぎたかな」
神様は反省の意を込めて、川の流れに指先をちょんと触れた。
すると次の日から、クラスの“譲り合いすぎ現象”は少しずつ薄れていった。体育の鬼ごっこも白熱し、美希は「やっと普通に走れるようになった」と安堵し、義悠は「やっぱり体育は汗をかくからこそ意味がある」と、誰にも聞こえない声で呟いた。
優真は改めて感じた。
「人って、ゆるやかな流れだけじゃ、きっと立ち止まっちゃうんだな」
昼休み、彼は川辺に歩いて行って、そっと言った。
「ありがとう、神様。ちょうどいい“ゆるさ”をくれて」
それを聞いたイチカワノカミは、どこかで風に紛れた声で呟いた。
「おおきに。水は、流れてこそやからな」
そしてまた、神様は江戸川の流れとともに、誰にも知られず、穏やかに町を見守り続けた。
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