第79巻 所沢市:トコロザワノカミの願い
所沢の朝は静かに香る。というより、お茶の香りがする。
――え? 緑茶の匂いがする朝なんてあるのかって?
あるのだ。所沢には、狭山茶を偏愛しすぎた結果「お茶の香りで願いを叶える神様」になってしまった男――トコロザワノカミがいるからである。
神様といっても、社もなければ拝殿もない。駅の西口ロータリーにある、あの謎の銅像(よく見ると急須を持っている)が正体だという噂もあるが、誰も証拠を掴めていない。
本人はというと、普段は「さやま茶葉店」の奥にある畳敷きの茶室で、湯気に紛れてふわふわ浮いている。浮いているのに誰も気づかないのは、ただ単に存在感が薄いからだ。
ある日。
所沢駅前に一人の青年が現れた。
名は律。趣味は暗記。特技は地図を見て寝ること。志望は「一発当てて人生勝ちたい」。
そんな律が所沢を訪れたのは、うっかり“叶えてくれる神様”の噂をネットで見てしまったからだった。
「お茶の香りで、あらゆる願いが“なんとなく”叶う」
この“なんとなく”が、律の中で危険なスイッチを押してしまった。
「これは当たる! なぜなら曖昧だ! こういうやつほど、ヤバいんだ!」
律は、神頼みのつもりで「さやま茶葉店」に入り、店主のおばあさんに深々と頭を下げた。
「ここの神様に願いを伝えたいんですが」
「あらまあ、お茶でも飲んでって」
「いや、神様を……」
「お茶飲めばわかるから」
「……わかるんですか?」
「知らんけど」
律は不安を抱えつつも、湯呑みを手にした。
狭山火入れの深蒸し茶。
口にした瞬間、ふわっと香りが広がる。
そして次の瞬間――
「願いは?」と、耳元で声がした。
律が飛び上がると、目の前には湯気と急須でできた人影が立っていた。ちゃっかり湯呑みも持っている。
「トコロザワノカミです」
「え、本当にいるんすか神様!?」
「ほぼいないけど今はいる。気が向いたから」
「じゃ、願い事します! 一発当てたいです!」
「了解。お茶の香り、添えておきます」
「添えるだけ!?」
「うん。“大出世”とか“大金持ち”って、渋みだけが残るでしょ。だから、君に必要なのは“香り”」
「わかるような、わからないような……」
その日を境に、律の周囲では不可解な現象が起こり始めた。
まず、やたらとお茶の香りがするようになった。歩けば緑茶、話せば緑茶、寝ていても緑茶。
通勤電車で隣に座った人が「この香り……狭山火入れ……」と涙ぐむほどに、濃厚に香っているのだった。
次に、謎の副業依頼が舞い込むようになった。
・茶畑の風景写真にモデル出演(なぜか裸足)
・「香りで選ぶ履歴書」セミナー講師(内容不明)
・狭山茶のCMソング作詞依頼(彼は作詞未経験)
極めつけは、地元の温泉旅館が“歩くお茶”として律を広告塔に採用したことだ。
「ちょっと待って! 俺、なんも成功してないよ!?」
「でも、当たってるよね。注目度、すごい」
トコロザワノカミがぽつりと言うと、律は天を仰いだ。
「俺が欲しかったのは……金! 地位! フォロワー!」
「そういうのって、渋すぎて喉につかえるからね」
「じゃあこの、お茶の香りは何のために……」
「日常の奥に、ほのかに香る余韻。
それが人生の“当たり”だと思ってくれたら嬉しいなって」
律は泣いた。
本当に泣いた。
狭山茶の試飲会場で号泣する青年というニュースが、所沢市の広報Twitterで取り上げられたのは、その三日後のことだった。
***
その後、律の“お茶香る人生”は続いている。
というより、所沢市の非公式マスコット「茶男(ちゃお)」として勝手に崇められ始めた。
本人は「お茶の香りがついてまわるせいで、飲食店でやたらとほうじ茶ゼリーを勧められる」とぼやいていたが、悪い気はしていないらしい。
トコロザワノカミはというと、またふわっと茶室に戻り、今度は狭山紅茶の開発にハマっている。
「ちょっとミルクティーっぽく願いが叶うやつも、いいよね」などと呟いている姿を、誰も信じてはいない。
ある日、所沢駅の改札口。
何も知らない旅行客が、ふと立ち止まり、言った。
「なんかここ、いい匂いしない?」
「うん。……緑茶の香りかな」
その香りの奥に、律の笑い声が微かに漂ったような気がした。
そう、人生は時に、香るくらいがちょうどいい。
ほのかに、でも確かに。
そして、今日も所沢には――
なんとなく願いを叶えるお茶の神様が、静かに、香りと共に生きている。
いいなと思ったら応援しよう!
楽しんでいただけることが一番の喜びです。いつもご覧いただき、ありがとうございます!これからも、皆さんと一緒に素敵な時間を共有できるように、より一層努力していきます。