第1話「草原の眠り、目覚めれば電柱の下」
アルキメデスはその日、朝からずっと考えていた。
「水の中に身体を沈めたとき、なぜ重く感じないのだろうか?」
王冠を沈めて比重を測るという発見から何年が経っただろうか。答えはわかっている。だが、彼の探求心は尽きない。エトナ山の蒸気、青銅の温度変化、アリストテレスとの議論、そして街角の市場で売られていた異様に軽いチーズの不思議。
今日はその“チーズ問題”について、己の記憶と知識を整理しようとしていた。
満腹のあと、地中海を望むなだらかな草原で寝転び、指を空にかざした。地平線に溶ける風。ゆるやかな風に白い布が揺れる。午睡にはもってこいの午後。
「……うむ。少し、寝て考えるとしようか」
羊の鳴き声を聞きながら、アルキメデスはまぶたを落とした。
その時、彼はまだ知らなかった。
目を開けた瞬間、彼のまわりにはギリシャ語もアゴラもなく、代わりに自動販売機と電柱と通学帽をかぶった小学生が存在するということを。
*
「…む?」
重たく、乾いたまぶたを持ち上げた先にあったのは、見慣れぬ鉄の柱と光る四角い箱だった。
「おお、これなるは…何だ?」
周囲を見渡す。草原はなかった。岩場もない。代わりに灰色の舗装と、鮮やかな赤や青の看板が並ぶ商店街。…商店街? いや、これは市場でもない。音楽が聞こえる。電子音だ。
「うぉあっ!? こ、これは…っ!」
突然、横の箱から「いらっしゃいませ〜」と声がした。アルキメデスはのけぞった。
その箱は、しゃべった。しかも、顔がない。金属でできていて、横には透明な窓があり、中に奇怪な筒が並んでいる。筒の中には、透明な液体、そして「コーヒー」と書かれた見慣れぬ記号。
「コ……ふぇ?」
指で文字をなぞる。これは文字だ。だがギリシャ文字ではない。完全に知らぬ言語。しかし、意味が通じる気がする。不思議と「これは飲み物である」と認識できるのだ。
「ここは……どこだ? わたしは死んだのか? いや、まだ感覚がある。痛みもある」
太腿をぐっとつねる。痛い。夢ではない。
ただし、理解不能である。
「すみません、それ、どいてもらえますか?」
背後から急にかけられた声に、アルキメデスは身体を跳ね上げるように振り返った。
立っていたのは、小さな少年だった。黄色い帽子、黒いリュック。手には硬貨。
「そこ、自販機の前なんで」
「じ…はん、き?」
少年はぽかんとするアルキメデスを見て、少し考える素振りをしたあと、「あ、外国の人?」と呟いた。そして懐から何やら金属の塊を取り出して、アルキメデスの目の前に差し出す。
「これ、ホット。寒いときはあったかいのがいいよ。ほら、飲んでみ」
それは——缶コーヒーだった。アルキメデスの手に渡されたそれは、じんわりと熱を持ち、掌にぬくもりを伝えてくる。
「……ぬくい。しかも、かん?」
缶の上部に口をつけてみる。飲み口から、香ばしい苦みのある液体が流れ込んできた。
「こっ、これは……!?」
目を見開く。まさに神の飲み物! これほど濃厚で芳醇な液体を、鉄の容器に閉じ込めるとは、どれほどの技術か! 煮詰めたブドウ酒とも違う。これは……これは……!
「我が人生に、これほど強烈な液体があったであろうか!」
その叫びに、少年は数歩後ずさり、「うわ、やべえ人だ」と小声で言って逃げていった。
「ま、まて! これを作った者に会いたい!」
アルキメデスが立ち上がった時、背後から甲高い警報音と共に、一台の白と黒の車が彼の前に停まった。
「すみませーん、不審者の通報があったんですがー?」
中から降りてきたのは、制服姿の日本の警察官だった。
アルキメデスはその警官の制服をしげしげと眺めた。胸元に銀色のバッジ、腰には棒状の武器らしきもの、肩には白く縁取られた布のような飾り。これは……どう考えても、古代ギリシャにはいなかった服装である。
「すみません、どちらから来られました?」
警官の日本語が理解できるはずもないと思ったが不思議と理解ができる。彼の表情と声音から「何かを問われている」と察するアルキメデス。思わず自らの胸に手を置いて、堂々と答える。
「わたしは、アルキメデス! シラクサの民であり、数学者にして発明家である!」
「……うーん、どっかの国の人かな? シラクサ? それどこ?」
警官は困ったように無線で何やら話し出す。
「現在、中央商店街南口、自販機前にて、外国人風の男性一名を保護中。名前は……アルキメデス? えっ、あのアルキメデス? いえ、本人ってわけじゃ……あ、年齢? 40代くらい……うーん……いや、違うな、もっと古風な言い回しだし……とりあえず保護します」
その間にも、アルキメデスは警官の腰に提げた「無線機」や「警棒」に異様な関心を示していた。
「その棒は何だ? 護身用の槍か? いや、長さが足りぬ。では道具か。…む、声を発するその道具は…?」
腰に装着された無線機がぴーと音を立てるたびに、アルキメデスの顔がびくりと跳ねる。
「……わからん。だが、科学のにおいがする」
ふと、警官が彼の手元の缶コーヒーに目をやった。
「それ、君が飲んだの? お金は払った?」
「かね……とは?」
警官の顔が一気に曇った。が、次の瞬間には苦笑いを浮かべる。
「あー、もしかして、わけわかってないのか。いいよいいよ、まあ今日はこっちで面倒見るから」
そう言って、警官はパトカーのドアを開けた。
「ちょっと、署まで来てもらえる? 君のこと、ちゃんと聞きたいんだ。な?」
「署……? なにかの集会か? あるいは学会?」
アルキメデスはやや警戒しながらも、興味に勝てず乗り込んだ。車内のクッション性にまず驚く。さらに、シートベルトをつけられ「安全のため」と言われた時点で、彼は完全に混乱した。
「この帯は……拘束具? いや、運搬中に落ちぬよう固定するものか?」
パトカーは静かに動き出した。驚いたのはその静けさである。
「馬もおらぬ、煙も出ぬ……それでいて進んでいる!? これは……これは、何の魔術だ……?」
窓の外を流れる風景、すれ違う人々、ビル、信号機、バス、犬の散歩、スマートフォンを見ながら歩く女子高生。
「まるで、神々の街ではないか……」
アルキメデスは息をのんだ。文明の密度、情報の速度、誰一人としてその構造に疑問を持たず日常として歩いていることに、深い衝撃を受けていた。
「……わたしは、神の夢を見ているのか……?」
思わず呟いたその声は、助手席の警官には聞こえていなかった。
そのまま、車は警察署に到着した。広い敷地、機械式のドア、ICカードの施錠、そして待合のテレビから流れるニュース。
アルキメデスは、受け入れるべき情報の多さに、すでに脳が処理能力の限界を迎えていた。
「名前、もう一度聞いていい? 読み方がわからなくて」
「アルキメデスだ。ギリシャ語ではἈρχιμήδηςと書く」
「ア、アル……キメデス……あれ? おい、これって理科の教科書に出てくるあの……?」
署員がパソコンで名前を打ち込み、検索画面を開いた。そこには、像と肖像画、Wikipedia、定理、原理、パスカルとの比較、数々の科学史記事が並んでいた。
「おい、マジかよ……これ、ほんとに“あの”アルキメデスの格好じゃねえか……」
アルキメデスは画面を覗き込み、自分の名前が列記されたそのページを、ただ呆然と見つめていた。
そしてこう呟く。
「……我が名が、記されている? この紙でも巻物でもない“光る板”に? まさか……」
その目が、ゆっくりと、震え始めた。
「……これは、何なのだ?」
アルキメデスはパソコンのモニターに顔を寄せた。自らの名が見出しとなり、数々の図、文献、翻訳された言葉と共に紹介されている。見知らぬ言語だが、なぜか“意味”だけは理解できた。まるで、頭の中に直接流れ込んでくるように。
「浮力の法則」「アルキメデスの原理」「レバーの法則」「パラボラ」
どれも、彼がかつて血と汗と睡眠不足で生み出したものたちだった。
「……わしの……定理が……今も……?」
モニターの横では、警官ともう一人の若い職員がひそひそと話している。
「これ、絶対なんかのドッキリ企画か、コスプレだろ?」「でもあの口調、本気っぽいぜ」「名前も年齢も不明、所持品ゼロ、身分証なし」「てかローブ着てるやつ初めて見たわ」
アルキメデスはそんなことに耳を貸す余裕はなかった。彼の目は、画面の中の“自分”と、そこに並ぶ「法則」という言葉に釘付けだった。
「人は……我が定理を……残してくれたのか……。わたしが死した後も、世界は……」
彼はふらりと椅子に腰を下ろした。さっきまでの混乱と動揺は、一瞬だけ静まり返った。そして静かに、少しだけ笑った。
「……ならば、ここは悪夢ではない。これは……神が見せてくれた、未来の世界……」
「どうしました? 気分悪い?」
警官がそっと声をかける。アルキメデスは答えない。ただ、どこか安心したような表情を浮かべて、コーヒーの缶をそっと握りしめる。
「この世界では、科学が……生きておる。しかも、我が理(ことわり)に従い……人々が生活しておる……」
そのとき、扉の向こうから駆け足で入ってきた女性が一人。
「すみません! さっきの通報聞いて来ました。私、○○中学校の理科教員で——!」
アルキメデスの顔がぱっと向く。理科、という単語に反応した。
彼女は彼をひと目見るなり、驚愕と笑いを交えた声で言った。
「……えっ、まさか……本当にアルキメデス“っぽい”人がいたんですか!?」
そして、何か確信したように目を輝かせた。
「浮力のことを語れるなら、ちょっと…来てもらえます?」
「来る? どこへ? 学問の場か?」
「はい、まあ、学校です。生徒たち、絶対喜びますから!」
戸惑いながらも、アルキメデスは頷いた。
「わたしの名を知る者が、ここに……ならば、我が知を伝えるべき時なのかもしれぬな」
その声は、驚きと興奮と、そして微かな希望を含んでいた。
──かくして、アルキメデスの「現代日本での初日」は、自動販売機の前で缶コーヒーを握りしめたまま、警察署の椅子に腰かけながら、次なる舞台——中学校への「転校」の兆しとともに、幕を下ろすのだった。
(第1話 完)
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