第41巻 倉敷市:クラシキノカミの願い
倉敷美観地区の朝は、まるで絵画の中の世界に迷い込んだかのようだ。
白壁の蔵、柳の揺れる川沿い、風情ある橋。着物姿の観光客がポツポツと現れ始める頃、町はまるで静かに目を覚ますかのように、しっとりと動き出す。
そんな景観の中でもっとも目立たない場所――人目に触れぬ石畳の端に、そっと腰掛けているのが倉敷の神、クラシキノカミである。
神でありながら目立つことを何より嫌い、口癖は「目立たず、美しく」。願いを叶えるときは“美的センス重視”。だがその美意識がややズレており、何かと「静けさ」や「余白」方向に過剰に寄せてしまうのが玉に瑕。
今日も静かに、小さな陶器の茶碗を手にお茶を啜っている。
「うむ、茶の色、静けさ、よき……」
そのとき、美観地区のとあるギャラリー前に、一人の青年が立っていた。
彼の名は啓太。
若き工芸作家であり、地元を愛する男。信念は強いが、人前でそれを語るのが極端に苦手で、展示会ではだいたい無言で壁の影に隠れている。
この日も、個展のオープン初日。
彼は朝から作品の配置を黙々と整えていた。だが内心はこう叫んでいた。
「……もっと、伝わってくれ……この皿の曲線美……グラデーションの尊さ……言葉にはできん……!」
その“静かなる叫び”を、クラシキノカミは聞き逃さなかった。
「ふむ、美の祈り、受け取った。叶えよう……ただし、美的に」
その直後、ギャラリー内に小さな異変が起きる。
照明が自然光のように柔らかく変化し、来場者の足音が吸い込まれるように静かになった。観客たちは作品の前でなぜか無言になり、感嘆の吐息だけが漏れる空間へと変わっていった。
まるで、時間が止まったかのように、作品だけが浮かび上がる。
その様子に、啓太は「……なんか、叶ってる……気がする」と心の中で神様にそっと手を合わせた。
一方、その展示会に足を運んでいたのが凪。
彼女は何事にも前向きで、啓太の作品に惹かれてこの日を心待ちにしていた。
「……うわ、空間ごと、作品になってる……。なんか、歩くだけで作品に包まれてる感じ……!」
その感動を、どうしても伝えたくてウロウロしていると、突然目の前に現れたのが勇心だった。啓太の幼なじみであり、普段は寡黙だが行動力がありすぎる。
「凪、お前が作品の前で立ち止まった時間、6秒以上だったな。あれ、好感度高い証拠だ。俺、啓太に伝えとく」
「いやいや!なんで“秒”で測るの!?」
「俺、行動でしか示せないからな。分析結果を紙にまとめておいた。渡してくる」
「ちょっ、待っ……」
そのやりとりを見ていた菜津栄は、ややあきれながらも、ふんわりと微笑んだ。
彼女は言葉で気持ちを伝えるのが得意なタイプ。だからこそ、啓太の“無言の美”が少しもどかしくて、どうにかしたいと思っていた。
「啓太くん、素敵な作品ですね。……でも、少しだけ、声でその想いを聞いてみたくなります」
その言葉に、啓太の耳が赤くなる。
啓太は菜津栄の言葉を聞いて、しばらく沈黙していた。だが、心の中では何かが泡立っていた。
(話すのは、怖い。けど、伝えなきゃ届かない……)
そのとき、凪が近づいてきて、まるで心を見透かしたかのように声をかけた。
「無理に言葉にしなくてもいいと思う。でもね……ちょっとだけ、言葉っていいよ」
その“ちょっとだけ”という言葉に、啓太はほっとした顔をした。
そこへ、勇心が紙の束を手に戻ってくる。
「啓太、来場者の動線と立ち止まり時間、全部まとめた。ここ、特に人気」
「……ありがたいけど、それ、全部手で数えたの?」
「もちろん。足音で。俺、耳がいいから」
「君、展示会に来た客じゃなくて、ほぼセンサーだよ……」
クラシキノカミは、その様子を影から穏やかに見守っていた。
「人は言葉で美を語り、沈黙で美を受け取る……どちらもまた、よう噛みしめる味わいよなぁ」
その瞬間、ギャラリーの照明が少しだけ色味を変えた。今度はやわらかな琥珀色。訪れた人々が、「夕暮れの蔵の中にいるみたい」と口々に言い始める。
その空気に後押しされるように、啓太は、展示の終わりにそっと一言だけマイクを持って言った。
「……ありがとうございました。たぶん、作品が全部、僕の言葉です」
たったそれだけの言葉だったが、会場にいた人々の中に、静かな共感の波が広がった。凪は頷き、菜津栄は目を細めて拍手を送った。勇心は拍手のタイミングを人より0.5秒ずらして、音の重なり方を確認していた。
その夜、美観地区の柳が風に揺れ、月明かりが川面に落ちる中、クラシキノカミはつぶやいた。
「美しいもんは、無理に主張せんでも……こうして、誰かの中にしっかり残る。それでええんよ」
倉敷の夜は静かで、深く、そして美しかった。
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