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閉じた傘の男

 その男は、いつも閉じた傘を持っていた。

 天気に関係なく。
 炎天下でも、台風の日でも。
 晴れていても、どしゃ降りでも。

「……なあ、なんであいつ、傘ささないんだろうな」

 通勤ラッシュの駅のホームで、誰かがつぶやく。
 みんながびしょ濡れでうつむく中、その男だけは涼しい顔で閉じた傘を握って立っていた。

「なんか…傘ってより、“棒”として持ってる感じだよな」

 彼の名は、野口雅人(のぐちまさと)、会社員。35歳、総務部。

 ただの傘──ではないらしい。

 ことの発端は1ヶ月前。

 会社のロッカールームで、同僚の山崎が声をかけた。

「なあ野口さん、その傘……いつも閉じてるよね?雨降ってても?」

「うん。開く必要がないからね」

「いや、いやいやいや。必要あるだろ!」

 野口は微笑んだ。

「これは、“気配遮断傘”だから」

「それ、ただのビニール傘じゃないの!?」

 彼曰く、「この傘を持っていると、他人に話しかけられにくくなる」らしい。

 曰く、電車内でとなりの人が避けてくれる。
 曰く、上司が“何か頼もうと思ったけど、やっぱやめた”って顔をする。
 曰く、道を尋ねられない。宗教の勧誘にも出くわさない。

「つまりこれは、“人間関係避雷針”だよ」

「それ、会社員としてアウトだろ!」

 さらに奇妙な噂が広がる。

「野口さん、その傘で自販機の反応が良くなるらしいぜ」

「え?マジで?」

「俺が缶コーヒー押したら『品切れ』だったのに、野口さんが押したら出てきた」

「……もしかしてあの傘、霊的なやつか?」

「開いたら“世界が終わる”とかそういう……?」

 そしてある日、事件は起こった。

 午後の会議室。突然の雷雨。
「誰か、傘持ってる?」と誰かが言ったその瞬間──

 全員の視線が、野口の傘に注がれる。

「野口さん、その傘、貸してもらっても……」

 彼は言った。

「この傘は……“閉じた状態でこそ力を発揮する”。開いた瞬間、ただの道具になる」

「いや、だから!びしょ濡れになるんだけど!」

「逆に、濡れれば誰も話しかけてこないだろう?」

「対策の方向性が斜め上すぎる!!」

 その後、野口は“閉じた傘”として顛末書を提出させられる羽目になった。ついでに今後の対策として新しい使い方も提示した。

 タイトル:

「傘を開かないことで得られる孤独の効能について」

 やがて野口の傘は社内で神格化される。

 給湯室で女性社員が言う。

「昨日、傘を開いたら逆に話しかけられちゃって」

「やっぱり開いたらだめなんだ……」

「閉じて、黙って、そこにいる……それが“ノグチ・スタイル”」

 人間関係疲れの救世主として、彼は密かに“閉じ傘師(とじがさし)”と呼ばれるようになった。

 だがある朝、彼は傘を持っていなかった。

 駅のホームで山崎が見つけて言う。

「……え、野口さん?傘どうしたの?」

「なくした」

「えっ」

「昨晩、バーで飲んでたら……席に忘れたらしい」

「えっっ」

「……今朝、上司に声かけられたよ。“最近どうだ?”って」

「うわあああああああ!!日常が戻ってきたーー!!」

「……もう、俺、普通に戻れないかもしれない……」

 その後、社内のある女性が、そっと彼に一本の傘を差し出した。

「これ……閉じて使ってください」

「ありがとう……この気配、遮断できそうだ……」

 彼の笑顔は、ちょっとだけ柔らかくなっていた。

 そして彼は、また静かに閉じた傘を握りしめる。

 人との距離、それを調整するのは、言葉よりも、時に──

「閉じた傘」かもしれない。

(なおこの物語は、職場で真似すると怒られる可能性があります)


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