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さみしさづくり

「加須に行こうか。うどん食べにさ」

なぜそう言ったのだろう。それはテレビのグルメ番組で紹介されていたからかもしれない。埼玉県の方か、東北道をよく使う方か、あるいはB級グルメ好きな方しか知らない街かもしれない。何と読むのかも含めて。

いや、やめておこう。「かぞ」は少し遠いな。そう僕は自分の言葉をすぐに否定した。

例えばそこが神奈川県の座間市ならどうだろう。二十歳までの二年間を過ごした街。錆びた金属の階段が重たそうな音を立てるアパートに住んでいた。初めての一人住まい。始まったばかりの大学生活。楽しい隣人、すてきな友達。僕を包むすべてはまるで新緑のように前を向いていた。若さ特有のフキノトウのように苦い劣等感や、必要以上に尖っていた感受性も含めて。

きっと誰もがそんな時を経るだろう。

埼玉県加須市。そこは社会人で就職したばかりの娘が任地として配属された街だった。東京の会社だが、本社採用の人間は男女を問わずに任地は様々だった。彼女は玩具のような電化製品と小さなテレビを買い、カエルが散歩しているその街のアパートに住み始めたようだ。

なぜ「ようだ」か。それは僕がその時、入院していたからだ。がん病棟にいて、僕は彼女に何もしてやれなかった。「頑張れよ。僕も闘っているから」というメッセージを置くだけだった。

治療が終わり、「そうは長くないかもしれぬが、ロクヨンですね」と医師に言われた。僕はロクに賭けていた。それしかないのだ。帰宅してすぐに言った。「加須に行こう」と。

小さなアパートに彼女はいた。見慣れたパジャマを着て疲れた様子だった。五月病はあったのか。心臓まで届くカテーテルを刺して抗がん剤の点滴パックを下げていた自分は、外れたにも関わらずそんな苦い記憶が残る。苦しんだとしたら同じだからそれすらも聞けなかった。

「良かった」 僕は何故か涙がこぼれた。

二年か三年か。何度か通った。埼玉県の東側、群馬と栃木、そして茨城に接するあの街はうどんが有名だった。それは香川生まれの自分にも美味しかった。白く光る麺を三人で食べた。「美味しいね」と娘も家内も言う。なんだ、食べたこともなかったのか。

「加須ね。一人生活を始めた娘に会いに行ったね。でも結婚もしたし、転勤で横浜に戻れたし、本当によかったよね。」

そうだな。少しだけ、いや、とても。僕の心は揺れる。加須、か。なぜか部屋の中が滲んで見えた。

なぜ寂しいのかと思う。どうして涙が出るのかとも思う。娘が育ち就職し、健気に一人住まいをして結婚した。これは王道のような幸せな話であり、泣くことはないはずだ。

その寂しさの理由も、また行方も分からないのだった。自分の過去を振り返ることはできる。少しの苦みを、やはり苦笑いで受け止める。しかし家族の話はどうか。

二人の娘たち、家内、犬。すべて彼らの背景には風景がある。楽しいはずの思い出も、どこかで寂しさに変わる。風景がそうさせる。

僕は思うのだ。人は寂しさを作るために生きている、と。悲しむために先へ歩んでいるのだと。喜びなどは、その道の傍らに咲くスイセンやアヤメにすぎない。そう思うと虚しい。

僕の中には、幸せで前向きな潮と、悲しくてやりきれない潮が、満ちたり引いたり。きっと今は暗い潮が来ているだけだ。

平均律が流れてくる。バッハの音楽はなぜ染みるのか。安い感情に流れない。対位法という旋律によって作られる彼の建築物は崩れない。あたかもそれは、宇宙を作る小さな摩天楼。そしてまた、彼の受難曲やカンタータにあるのは何だ。真摯な、求心的な祈りではないか。

少しずつ和らいでくる。娘からのメッセージだった。

「おは。元気にしてる?」

何を言ってるんだコイツ。

「元気じゃ」

そう、潮が満ちてくる。僕は潮目を待っていた。

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